:村松嘉津引き続き二冊

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村松嘉津『帰佛日記』(六興出版社 1949年)
村松嘉津『日佛の間に在りて』(東文館書院 1979年)

                                   
 引き続き村松嘉津を読んでいます。今回はかなり毛色の異なった二冊。

 『帰佛日記』は昭和15年ドイツ軍のフランス侵攻を機にフランス人の夫と別れて日本に帰った時と、8年後再び夫とまみえるべくフランスに向った時の二つの船中日記と、戦前アジア研究者の夫と共にカンボジア、ヴェトナム、北京に滞在した時の随想などを収めています。

 船中日記は、昔のヨーロッパ旅行記には必ずと言っていいほど出てくるもので、金子光晴や吉江喬松のものが強烈に印象に残っていますが、村松の船中日記は分量も多く、長期にわたって一つの船に閉じこめられるという特殊な環境での人間関係の観察が小説を読んでいるかのように面白い。

 はじめは、それぞれの勤務先や役職の優劣、夫人の場合は夫の肩書が幅を利かせて、何となく序列をかたちづくって皆かしこまっていた旅客たちが、時が経つにつれて、「各個人の持つ人間的価値が買われ始め・・・某氏と某嬢、某君と某夫人というような親しい語らいの幾つかの組が出来・・・あんなにまで旅路の長さをかこっていた人々が、この頃になるとこの特殊な世界になじんで、むしろ享楽し始めたように見えて」(p99)、最後には、著者も「この船がどの岸にも着くことなく、永遠にこの旅をつづけ、この怠惰な小さな世界を無限にのばしてくれるなら、却ってどんなに面白いだろう、そうしたらこの船上の人びとの運命はどういう風に発展して行くだろう、というようなおとぎばなし的な空想をほしいままにするのであった」(p101)という感想を抱くにいたります。

 具体的には、インド人のエリートと結婚してインドに渡ろうとするポルトガル婦人とフランス少年の恋や、中国古典に精通し著者に思いを寄せる中国人青年との交流、同室の若いアメリカ婦人に詩を送りしつこくつきまとう中年フランス人の求愛などが描かれています。こうした交際を語る際に、著者ならではの文学的な素養がちりばめられているのが、これらの話に彩りを添えています。フランス少年と一緒に暗誦するボードレールの「人と海」、中国青年との中国古典に関する会話や、中国青年が著者と別れの際に送ってくれる七言律の長歌の解釈など。著者がフランスだけでなく、中国に関する素養にも豊かなことに驚きました。

 いくつか新しい知見を得ることができました。インド人もきんま(ビンロウ)を喫すること(p79)、当時の中国には西洋文学の作品はあまり多く翻訳されていず、翻訳されても広く普及していなかったこと(p216)、このことからいかに日本が明治以降海外の文学を摂取しようと努力したかがよく分かりました。また著者が、自分には散文の中に詩を求める性向があり、ボードレールの「パリの憂鬱」やベルトランの「夜のガスパール」が最も親しめる詩であると告白すると同時に、詩の贈答に触れて、どんな拙い表現でも詩の形式さえ備わっていれば何とかおさまりがつくらしいと、詩形というものの強味に感心する場面(p231)にはおおいに共感しました。

 この本は、野田宇太郎の装幀ということで、野田宇太郎のことを故友と書いていました。それで著者に『巴里文學散歩』という作品がある理由が分かった気がします。


 『日仏の間に在りて』は、戦後に書かれた時評と、戦後日本語の改革への抗議、ヴェトナム随想、タレーラン評伝が収められています。

 「ヴェルサイユ通信」「モルトケ遺訓」というタイトルの二つの時評では村松嘉津の新たな一面を見てしまいました。ともに、掲載誌の性格によるものと思いますが、当時の左翼的な言辞がはびこる風潮をこき下ろした時評集で、櫻井よし子を思わせるような右翼的な言葉が延々と綴られています。これまで読んできた村松の文章から築きあげられてきた彼女に対する美的なふくよかさの印象が木端微塵に吹き飛んでしまいました。

 当時の左翼の安全保障に対する能天気な無防備さを批判するのはもっともだと思いますが、例えば、東京文化会館に新たに設置されることになった車椅子専用の観覧席に対して、こんなのは過保護の過保護倒れとでもいうべきと言ってみたり(p106)、ウガンダのアミン大統領を、憎さ余って、真っ黒で巨大な賓頭廬(びんずる)頭の醜怪はオランウータンさながらと言ってみたり(p147)、貧乏人が持ちつけぬ金を持つと碌なことはしないものだと言ってみたり(p157)。

 そういえば、これまでの彼女の文章のあちこちにも、少し貴族的な態度を感じさせるところがあり、それが魅力でもあったんですが、こういう一面を見ると、それがマイナスのイメージになってしまいます。彼女が優れた随想をものした割に現在あまり顧みられていないのは、こうした思想のせいなんではないでしょうか。

 ただ、時評以外では、そうしたエキセントリックな一面は影をひそめ、理路整然として、説得力のある文章が展開されています。

 戦後日本語の改悪に対する攻撃では、フランスの綴り字法改正案がフランスにおいていかに論破されていったかを語りながら、日本の新かな、当用漢字などの国語改革の問題点を明らかにしており、その手腕はなかなかのものです。ここでは詳細は省きますが、①年少者のために国語を簡素化するというのは間違いで年少時の記憶の訓練こそ頭脳は鍛えられること、②改革はいったんなされると次々に進んでいき最後は古典と絶縁される事態にまでなってしまうこと、③一時的な権能を行使するに過ぎない一政府が、国民の誇りとする長年の構築物に対して償い難い破損を加える権能はないこと、などを反対の理由としてあげています。

 さらに、なぜ国語審議会は漢字だけを制限して外来語を制限しないのかと疑問を呈し、話し言葉と書き言葉とを一致させようとする思想に対して、両者は全然性格のちがう二つの意思伝達の媒体であり両者が完全に一致することなどあり得ない、と啖呵を切っています。すでに新かな当用漢字で教育を受けた身としては、今から旧字旧かなに戻ることは不可能ですが、戦前に生まれればよかったという思いはあります。

 タレーラン評伝もなかなか読ませる文章です。革命の動乱期に亡命、フランスに戻るやナポレオンと行動をともにし、ナポレオン凋落と見るとルイ十八世を擁立し、ウィーン会議で敗戦交渉の成果を勝ち取り、ナポレオンの復活による引退逼塞を経て、今度はルイ・フィリップを擁立、そしてロンドン会議と、長期間にわたり、陰になり日向になりフランスの政治外交を支えた一生を描いています。

 この本でも新たな知見がありました。フランスの植民地政策を批判する用語に六角主義(ヘクサゴニスム)というのがあって、それはフランス本国の形が六角形をしている所から出て来たということ(p12)、パリ近郊ランブイエの森に、明治天皇が贈呈した鹿が一部落を成していること(p22)、昭和50年春ごろ、福島県東電第二原子力発電建設が、地元民の阻止にあって難渋していたこと(p104)、意外やポール・ヴァレリーが綴字法改正論者であったこと(p193)、明治初期の日本の先覚が創作した西欧の思想、哲学、科学などに関する漢語を、安南人がその素晴らしさを褒めつつ自分たちの語彙中にとり入れ、中国も喜んでこれを採用したこと(p211)など。