:佐藤和夫『海を越えた俳句』


佐藤和夫『海を越えた俳句』(丸善ライブラリー 1991年)


 海外で作られている俳句というかハイクについて書いた本。著者は英文学がご専門で比較文学の研究者。長年、海外でのハイク活動に関わり、みずからも俳句を作られるだけあって、海外の俳句の動きについて、要領よくまとめられています。コンパクトながらも一冊読めばだいたい総覧できるというのが新書の強みと言えるでしょう。

 そもそも海外のハイクはどんなものか。三行分けの無韻詩で、五・七・五音になっているものも多いようです。著者は、ワン・ライナーと呼ばれる一行のハイクのほうが、語数が俳句に近く、五・七・五に訳すのも容易だと言います。実例を引用しておきます。
Just enough of rain/ To bring the smell of silk/ From umbrella (Richard Wright)
春雨や雨傘の絹匂うほど(著者の俳句訳)(p224)
次がワン・ライナー。
dusk   from rock to rock a waterthrush (John Wills) 
たそがれや岩から岩に川つぐみ(著者の俳句訳)(p217)。「dusk」の後にスペースがあるのは、俳句における「切れ」。


 当初は、日本の俳句を外国語に翻訳するところから始まりましたが、俳句が海外に浸透していった経緯をまとめると次のような感じでしょうか。
①西洋で俳句と似た詩型はギリシア時代に「エピグラム」というのがあり(p68)、また俳句紹介以前のフランスで、すでにJ・ルナールやヴェルレーヌマラルメが短詩を書いていた(p72)。
②日本の俳句が初めて海外で紹介されたのは、明治20年代頃で、翻訳したのはイギリスのチェンバレン、ドイツではフローレンツ、日本の小泉八雲。明治末ごろ少し遅れてフランスのクーシュー、ルヴォン、さらに遅れてアメリカのブライスヘンダーソンが、それぞれの国で広めた。
③戦前はフランスで流行し、1920年に文芸雑誌「ヌーヴェル・レヴュー・フランセーズ」でハイカイ特集をしたり(p88)、1924年にはハイカイ・コンクールがおこなわれ1000作品も集まったという(p81)。イギリスでは、E・パウンドやイマジスト派詩人がハイクを作った(p13)。戦後はアメリカで禅の流行とともに盛んになり、ギンズバークらビート派詩人が俳句を好み、その影響下に数多くの俳句雑誌が創刊された。
④1989年には、国際俳句交流協会が設立され(p235)、90年の「花と緑の万博」の世界児童ハイク・コンテストには、世界30数カ国から6万作以上のハイクが集まった(p190)。


 海外の作家たちの俳句観で、特徴的な点は次のような所でしょうか。
①俳句を他の日本文化と関連づけて捉えるところ。例えば、日本の一筆描きの絵のような「ミニアチュアのスナップショット」と捉えたり(p27)、禅との共通点を見て、「通常に異常を見、平凡なものに神秘的なものを感知」するある特別な瞬間を記録するものとしている(p116)。
②後者の考え方を表しているのにawareness(一種の悟り)という言葉があり、創作者の意識が高揚して、見えないものが見えてくるような場合を指している。人の見落としていたことを見つけて表現することがハイクでは重要で、これは日本の俳句で言う「発見」にあたる(p161)。
③子規の写生にあたるのはスケッチではなく、サッチネス(suchness)といい、仏教の「真如」を訳すときに使った語で、ありのままという意味。知的な説明を排除するという意味で使っているとのこと(p161)。
 ということで、概括すると、俳句のなかに東洋の神秘を求める傾向があるようです。


 何より日本の俳句と海外のハイクのいちばん大きな相違は、季語に対する意識がないというところで、これは結局、異なる生活、文化間の問題に突き当たるということがよく分かりました。虚子がフランスへ行き、クーシューをはじめフランスのハイカイ作家たちと懇談をした際、音数については十七音でなくていいと寛容を示しましたが(p97)、厳しく指摘したことは季がないということで、「彼らのハイカイの大部分は俳句ではない」と言っており(p95)、フランスから帰ると、「先ず俳句でなくいくらか長い花鳥諷詠の詩というようなものを彼等に示し、段々魚を追い詰めて来るようにして、ついに俳句に到達するようにやってみようかと思っている」とか「全人類をして四季の変遷にも少し敏感であらしめることは一個の福音を伝える所以」(「ホトトギス」)(p96)と気炎を上げています。

 俳句の翻訳においても、例えば、芭蕉の「古池」を訳すにしても、「池」が水を満たす容れ物の意味が強いのに、「pond」では中に入っている水に意識が行く言葉だそうで、「the old pond」と訳すと「年を取った水」というニュアンスになるらしい(p24)。やはり異なる文化間での共通の感覚というのはきわめて困難なことが分ります。逆に考えると、日本では明治以降、海外の詩をせっせと翻訳して鑑賞し、それが日本の詩に決定的な影響を与えてきたことは不思議な気がします。がそうした誤解の上に成り立つ海外の詩の鑑賞について、著者はこんな美しい言葉で擁護しています。「水の上の月影は月そのものよりも美しいこともある」(p12)。

 いろいろ新たな発見がありました。皇室は俳句はつくらないことになっているとか(p8)、西洋の詩に登場するのは薔薇や白鳥で、蛙は滑稽な動物に過ぎず詩の題材にはならなかったこと(p49)、「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」の芭蕉真筆の俳画には、烏は一羽ではなく二十七羽も描かれていること(p60)、子規にスケッチという言葉を教えたのは弟子の中村不折で、それが俳句における写生重視につながったこと(p73)、天皇人間宣言詔勅は、アメリカでの俳句紹介の推進者ヘンダーソンブライスが書いたこと(p149)、歳時記は日本独自のものではなく、中国ですでに5世紀、歳時記の原本のような『荊楚歳時記』が出ていること(p199)、またこの本が書かれたころ、フランスでアラン・ケルヴェルン氏によって歳時記がつくられつつあったこと(p235)。