P=L・クーシュー『明治日本の詩と戦争』


P=L・クーシュー金子美都子/柴田依子訳『明治日本の詩と戦争』(みすず書房 1999年)


 また新しい一年を迎えました。今年もよろしくお願いします。年末から引き続き、海外の短詩に関する本、とりわけ必ずといって引用されるクーシューの著書を読みました。昔読んだような気もしますが、あちこちに引用されるのでそんな気になるということにしておきましょう。内容は大きく三つに分かれ、一つは俳句についての紹介、次に日露戦争開戦時の日本の様子を報告した日記、最後に孔子についての文章となっています。なかなか深い洞察の持主と見えて、それぞれについて含蓄のある見解が表明されていました。

 俳句に入る前に、日本文化に対する総評が一章設けられています。こそばゆくなるほど日本を絶賛していて、あらためて日本の美点を再認識させられました。いくつか指摘がありましたが、西洋文明が入ってくる前に、すでに日本は爛熟していたこと、それも西洋に先駆けて15世紀にはすでに完成しており、京都はアテネフィレンツェに匹敵する都市であったとしています。それと自然に対する愛が日本人の隅々にまで浸透していることへの驚き、そして芸術においても広い範囲にわたって実践され享受されていること、例として茶の湯という独特の芸術があることや日本では実用的な調度品が芸術的であることを取りあげています。また精神面においても品行の道徳がいきわたっていることなど。がこれらは明治時代の話で、今ではどうでしょうか。

 俳句を論じた「抒情的エピグラム」では、動植物、風景、風俗といったテーマ別に、158句もの例を挙げながら解説していますが、その文章は詩を読んでいるようです。例えば、日本人の動植物への細やかな愛情を語ったところでは、「蝶の脳髄に燃える欲望の一筋の炎を感じられないものかと、残念に思う」(p49)と書いていたり、風景の部では、俳句は簡潔さゆえに広大無辺な風景を描きやすいと指摘した後、「私には、なにか詩の雫といったものが連想され、その一雫一雫はそれとなく日本をまるごと映し出している」(p62)、また風俗を語ったところでは、「田園の奏楽、花見の宴、着飾った女たちなど、日本のワットーによる雅宴」(p91)といった表現も見られました。

 作家については、芭蕉を仏教的な悟りを追求した神秘家として他の俳人とは別格としながら、絵画的人間的な蕪村の方が好きだったと見えて、引用句の半分近くは蕪村の作です。フランスのハイカイについては、冒頭の章でマラルメが雄弁な詩を排したことを述べた後、「抒情的エピグラム」の章では「フランスの俳人」たちという見出しを設け、ヴェルレーヌジュール・ルナールの短詩に俳句的なものを認め、フランスのハイカイ詩人としては、ジュリアン・ヴォカンスを取りあげ、第一次世界大戦を題材にした句をいくつか紹介しています。


 なかで気に入ったフランス語訳詩を、一つだけ挙げておきます。短歌になりますが、
春くれば猶この世こそ忍ばるれいつかはかかる花をみるべき(皇太后宮大夫俊成『新古今和歌集』)
「UN VIEUX PRÈTRE」 Dès que le printemps revient/ Je me reprends à aimer/ Ce monde d’illusion…/ ―Sais-je dans quel monde futur/ Je reverrai ces fleurs?
(「老僧」 春の巡るごと、/ あらためてこの幻の世を/ いとおしむ…/ ―いったいどんな来世であろう/ この花々を再び眺められるのは?)(p19)


 「戦争に向かう日本」の章では、日本の新聞記事を通じて、日露戦争開戦前の日本の様子を克明に報告していて貴重。国際的な眼で日本の偏りを正しています。「この国の民には敗北を学ぶということが欠けている」(p163)とか、「新聞は毎朝、ロシアには中国より楽に勝てるだろうと報じていた。こうしたときに役に立つような不幸な経験を今まで味わったことがなく」(p165)というように、すでに日露戦争の時に、将来の第二次世界大戦の敗北に通じる日本の本質的な欠陥を見抜いていることです。また戦争の虜になった国民の愚かしさを恋の虜になった男に喩えたり、本人は複雑な感情だと思っていても実は単純な感情だと、冷静に日本国民の熱狂を見つめています。


 「孔子」の章でもっとも印象に残ったのは、孔子のように理性を追求した人物が神格化され崇拝されて、一種の宗教になっていることに注目しているところで、西洋では理性が認識の領域に用いられ、諸科学を生み出し、それを実利の世界で発展させたのに対して、アジアでは理性は人と人との関係に用いられたと比較をしていました。


 訳者による注釈や解説もとても充実しているのがこの本の特徴と言えるでしょう。前回読んだ『海を越えた俳句』でも、皇室が俳句を作らないということに驚きましたが、海外でも初めは和歌の方しか紹介されなかったようです。その理由として、日本の詩が紹介され始めた当時、日本では月並俳句、床屋俳句が隆盛で、それが批判されていたので軽視したのではないかと、指摘しています。その後、子規による俳句改革が起こったということです。また、リルケがこのクーシューの本を下線を引きながら愛読していて、蕪村の名前や俳句にもっとも多くの下線が記されている(p155)というのも面白い発見でした。