:いろんな分野の人のパリ体験

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與謝野秀『欧羅巴雑記帳』(双山社 1947年)
伴野文三郎『パリ夜話』(教材社 1957年)
丸山熊雄『1930年代のパリと私』(鎌倉書房 1986年)


 日本人のフランス体験の本を続けて読んでいます。私の所持本も残り少なくなってきました。順番は発行年順ですが、面白かった順でもあります。著者は三人三様で、與謝野秀は外交官、伴野文三郎は実業家、丸山熊雄はフランス文学者。時代的には、伴野氏がいちばん古く1904年から第二次世界大戦頃まで、與謝野氏は1928年から第二次世界大戦終了まで、丸山氏は1934年から1939年までの話。

 したがって内容はまちまちで、それぞれ特徴があります。『欧羅巴雑記帳』は、「随筆と称すべくあまりに文学的ではない」と「序」にありますが、与謝野鉄幹晶子の息子だけに、ノワイユ伯夫人の詩に言及するなど、この三人の中ではなかなかの文章でもっとも文学的な印象がありました。内容は、第二次世界大戦に突入する前から終息するまでの欧州の情況を外交官の目で見たもので、国際連盟脱退や日独伊三国同盟締結、中立国スイスの動きやドイツの敗退の様子などが描かれています。当時の日本の外交官の仕事ぶりや生活がよく分かりました。また外交のあり方についての著者の真摯な考え方が披露されています。

 具体的な事実や著者の思いとしては、
①日本国内と違って、フランスにいる日本人たちは比較的冷静に批判し得る立場にあって、日本の前途を憂慮する声が多く、独逸の対仏政策についても批判的だったこと(p21)。
②戦争末期にベルリンにいて、空襲の時にブンカー(地下壕?)を探して逃げ回ったことや(p66)、オペラ劇場が破壊されオペラはなくなり、映画は最後まで見られたが切符の入手が大変だったこと(p68)。
③ベルリンと比べるとミュンヘンの被害がさらにひどく、ベルリンでは掃除や跡始末が行われていたが、ミュンヘンは全部破壊された上に、瓦礫がそのまま放置されていたこと(p82)。
④日本がまだ戦争に入ってなかった頃、ナチスに国を追われたユダヤ人がウィーンやケーニヒスベルグの日本の領事館に殺到し、人助けと思ってどしどし査証を発給していたが、神戸のホテルが避難と船待ちのユダヤ人で埋まってしまったので、それから査証発給が厳重になったこと(p93)。ユダヤ人に対してビザの発行をして助けたリトアニア駐在の杉原千畝が有名ですが、この美談にはそういう前史があったということが分かりました。あまり報道されていないように思います。
⑤戦争末期、米軍がライン河に迫った時、ドイツ軍の指揮官は退却しながら鉄橋を故意に破壊せず、軍法会議で従容と銃殺された。もうこれ以上の抗戦は無意義で国民の幸福に何等貢献しないので、連合軍を早く引入れることが、国民を救うとの確信があったに違いないと著者は推測している(p108)。
⑥二つの国家の間で外交関係が断絶した場合、双方がそれぞれ中立国に依頼して、相手圏内における自国の利益を保護してもらう慣習となっているが(p117)、第二次大戦中スイス、スウェーデンの中立国が日本の利益の保護に絶大な尽力をしてくれたこと(p116)。

 当時ヨーロッパで活躍したピアニストの原智恵子、ヴァイオリニストの諏訪根自子の名前も出てきました。


 『パリ夜話』はひとことで言ってしまえば、酒席でするような自慢話。成功した実業家が怪気炎を上げているといった感じで、商売で機転を利かせて成功したこと、海外でいろんな大物と付き合いがあったことを披露し、政治情勢に対して自論を展開し我流の秘策を授けたりしています。大臣になるかと誘われたが時機を逸したというような捕らぬ狸の皮算用的な話もたくさん出てきました。政治の世界に色気があると見えて、何回か選挙に出馬して落選し言い訳を書いています。

 貴重だったのは、『欧羅巴雑記帳』が第二次世界大戦下の混乱を報告していたように、第一次世界大戦時に毎日新聞名誉通信員の肩書で従軍記者になっていたので、戦況が生々しく報告されているところです。驚いたことに、フランス政府により西部戦線が初めて記者に公開された時、日本からは伴野氏のみが参加し、他の記者は大使館の命令でパリ在留邦人らと一緒にボルドーに避難していたというのです。

 面白かった意見は、フランス人が実業家よりも学者や芸術家を尊敬したり、社会の上層部の人でも立場を捨てて参戦するなど名誉を重んじる風潮があり、これは拝金主義に凝り固まったアメリカとは違うと、名誉と金を二項対立として考えているところ(p142)。

 ほかに私の知らなかったことや著者の意見は次のようなもの。
①1914年迄はパリ在留民が少なく、日本大使館には大使と官補と書記生の三人しかいなかった時代もあったこと(p24)。
②大使館が日本の在留民がフランスの新聞に勝手に投書するのを嫌がって、気に入らない記事が出ると、大使館に出入禁止を命じ、そのため日本の国籍を離れた人もいたこと(p56)。
③大使がフランス人との公式の会にしか参加せず、自由に広く交際をしていないと批判し、フランス人との幅広い交遊ができる人材が必要だと訴えている(p57)。
④フランスが第一次世界大戦でドイツ軍と膠着状態にあった時、日露戦争で勝利した強い日本兵が来援すれば必ず独逸に勝つと、フランス国内で日本出兵論が沸き起こっていたこと(p60)。
西部戦線では四ケ年間連合軍を統一する司令部がなく、英仏両軍がバラバラに戦争をしていたこと、それは「歴史始まって以来、外国の将校に命令されたことはない」と英軍が頑張っていたためで、それを見兼ねた米総司令官は、フランスに対し「MON ARMÉE EST À VOUS(私の軍隊をあなたに差し上げます)」と言って西部戦線に加わった(p71)。
⑥英国には大陸政策として「欧大陸に強国を作らず」という主義があり、フランスと力の均衡を保たせるため第一次大戦で負けたドイツを助けようとするので、英仏間に戦争が起こりそうになるぐらい対英感情が悪化したこと(p72)。


 前二冊が戦時下の波乱万丈の生活を描いているのに対し、『1930年代のパリと私』は第二次世界大戦前までの話なので、二冊に比べると平々凡々とした日常が綴られていて、印象が薄かったのはやむをえません。不勉強で著者の名前も聞いたことがありませんでした。ヴォルテール研究などをしたフランス文学者のようで、この本は、学習院大学の教え子に若かりしフランス留学時代のできごとを語ったテープを文字に起こしたもの。語り言葉に特徴がありますが、思い出しながら喋っているせいか、事実を伝えることに重点が置かれ、あまり内面的なことには触れられていないのが物足らないところ。

 勉強の傍ら、音楽界や講演会、寄席やサーカスに行ったり、玉突きをして遊んだり、通訳のアルバイトで国際学会に出たり、フランスの雑誌に寄稿したり、日本映画をパリで上映する事業にかかわったり、日本語の家庭教師をするためワルシャワへまで出かけたりしています。美術史の吉川逸治や1937年のパリ万博で日本館の設計をした坂倉準三、パスカル研究の前田陽一らと付き合っていたようで、変わったところでは写真家のロバート・キャパとの交流もあったり、ジャン・カスーとも会っています。ここでも原智恵子、諏訪根自子の名前が出てきました。前回読んだ『パリ留学時代』とほぼ年代的には重なりますが、そこに登場した日本人画家たちとは交流がなかった模様で、名前は出てきませんでした。