:軟派系フランス滞在記二冊

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村松梢風『ヨーロッパの春―女のいる風景』(読売新聞社 1956年)
田村泰次郎『人間の街パリ』(講談社 1957年)


 前回読んだ硬派の二冊と違って、村松梢風田村泰次郎という柔らかめの文士のパリを中心とした滞在記。二人の共通点は、女性観察を主とした旅行記となっているのと、行った時期が第二次大戦後まもなくの昭和28〜30年ごろという点。

 村松梢風は名前はよく聞きますし、古本屋でも本をよく見かけますが、読んだことはありません。作家としてどんな方かもよく知りませんが、この本に出てくるかぎり、お大尽然とした好色な金持ちという印象。行く先々で大使館の人が出迎えて過分な接応をしている様子がうかがえます。高浜虚子の日記でも同じようなことがありました。日本の外交官は何をしていたんだろうと思ってしまいます。

 当時の大使館員の仕事ぶりについては、田村泰次郎も敏感に感じていたらしく、「日本の大使館・・・日本ブームに対処するなんの方策もありそうにない。日本宣伝のための折角の好機を、手を拱いて、第三者みたいに暢気に傍観しているだけだ」(p42)と書いていました。

 田村泰次郎も読んだことはなく、学生の頃『肉体の門』を映画で見たぐらいです。絵を描くとは知りませんでした。表紙の絵も氏の作品。他にも、太い線でのデッサンが20数葉ページ途中に挿まれていました。ネットで調べてみると、大学時代に絵画愛好会に所属し、洲之内徹と親交があり、画廊を経営していたとありますから、よほどのマニアと見えます。

 『人間の街パリ』は、1953年ごろに、ご夫婦で9か月パリに滞在した時の見聞記。噂話も多い。猫に食われる老婆、鳩を捕まえて食べる老人の話から、巧みな方法で娘をさらって中東の富豪に売る話など、パリでの生活の厳しさを書いている反面、その厳しさから生まれる芸術の美しさや、人々が自由に生きようとするヨーロッパ的生活への手放しの賛美が感じられました。シャンソンや大きな紫陽花について書かれた文章を読んで、またパリへ行きたくなってしまいました。

 絵の話では、ユトリロヴラマンクをも凌ぐと佐伯祐三を絶賛し、人間の魂のうめきを思わせる重苦しい祈りが感じられるとルオーを賛美する言葉が目を惹きました。エピソードでは、志賀直哉梅原龍三郎とシャルトルへ向かう途中乗っていたタクシーがバスと衝突して負傷したこと、当時パリの一部の日本人画家たちのあいだで路上の小石拾いが流行していたこと、など。


 『ヨーロッパの春』は、1955年4月から7月にかけて、パリ、カンヌ、ロンドン、エディンバラマドリード、トレド、ニューヨーク、ワシントン、サンフランシスコ、ハワイと回遊した記録。この本のために書き下ろしたと思われる旅行記、日本の新聞等に送った原稿、旅の途上につけていた日誌など、いろんなものを雑多によせ集めたという感じで、時系列には並んでいません。

 やたらとチップをばらまくお大尽ぶりが鼻につきますが、絵画や彫刻よりも音楽や舞踊の方が今の自分には楽しいと、ミュージックホールやキャバレーに足繁く通った体験を書いているのは、自分の欲するものに正直で、無邪気に喜びを表す素直な人柄が感じられます。踊り子にチップをはずんではしゃぎまわり、酒を飲んでいい気分になり、あげくに帰る途中に帽子やコートなどいろんなものをたえず忘れている姿は可愛らしいとさえ言えます。

 いちばん印象に残ったのは、フランスの批評家たちが日本映画全般に共通する欠陥を批判したなかで、テンポがのろいと指摘していることを受けて、分かり切った意味のない場面を長々と写すと同感し、それを自らの領域である文学に敷衍して、「省筆ということは、文学美術では最大の技巧であるとされている。平常写生が十分出来ていると省筆が出来るが、写生の不十分な場合はとかくむだ筆が多い。冗漫を忠実だと思っては困る」(p28)と書いているところです。たしかに書かれていない部分を感じ取ることによってより感興が深まったり、難解な部分を解こうとすることで世界が深まったりすることがあると思います。

 駅のアナウンスをだらだらと流したり、親切心から説明過多になる傾向が日本にはあるようですが、一方フランス人は冗舌で日本人は寡黙ということも言われます。絵画でも、西洋では画面を埋め尽くすのに、東洋では空白を生かすというようなこともあります。どちらが本当なのでしょうか。

 面白かったのは、デュアメルが日本の人口問題は将来世界の癌になると指摘した話が出てきますが(p100)、それはたくさん子どもを生むので人口が増えすぎるという話で、今とまったく逆なことです。

 この本でもいろんな日本人が出てきましたが、カンヌ映画祭の世話をする高田博厚(『人間の街パリ』にも登場)、中村光夫矢内原伊作堀口大学の弟や、三島由紀夫の弟など。