:河盛好蔵『藤村のパリ』


河盛好蔵『藤村のパリ』(新潮文庫 2000年)

                                   
 藤村がパリに約3年滞在した時の体験を追いかけた一種のノンフィクション・ドキュメント。いろんなエピソードが連続して冗舌に語られています。当時のパリの様子はどうだったか好奇心を刺激されました。細部の面白さはありますが、全体の骨格はおぼろ。いわゆる作家論文学論というものではありません。

 『海へ』『新生』『エトランゼエ』『平和の巴里』『戦争の巴里』などの藤村の作品を元にして、それに藤村の書簡、関連する人物の作品、当時の新聞記事、実際に現地へ赴き人に取材してなど、あらゆる情報ソースを駆使しています。河盛好蔵という人は、ノンフィクション的探究がお得意のようで、藤村の下宿の女主人マダム・シモネエの素性を追いかけて、親戚に会いに行ったり、藤村が第一次大戦を避けて疎開したリモージュへまで出かけて取材しています。このシモネエ追跡がこの本の圧巻。

 読んでいて、パリの名所や通りの名前、知っている建物やカフェなどがいろいろ出てきたので、懐かしく思い出されました。また後半はほとんど第一次大戦と重なるので、大戦時のフランスの内情を知るのに参考となる本だと言えます。

 藤村はまったくフランス語を解さないまま旅立ったようで、パリに着いてから個人レッスンを受け、初めは日本人とも交わらないようにと心がけます。がしばらくすると、日本人仲間と行き来するような生活になってしまいます。いろんな人物が出てきますが、藤村と同じシモネエの下宿に滞在したのは、沢木四方吉、郡虎彦水上滝太郎ハーバード大学で経済学、社会学を学んだとは驚き)、濱田青陵、野口米次郎など、それに向かいのホテルにいた河上肇、またモンパルナスのシテ・ファルギエールの画室に住みついていた日本人の画家たち、藤田嗣治小杉未醒山本鼎ら。

 著者が80歳を越えてからの作品なので、年寄りらしくあちこちに重複した記述があるのが愛嬌。と偉そうなことを書いても、私も、以前フランスの旅行記をまとめて読んだ時(2015年8月3日記事)、この本に出てくる藤村の文章もいくつか読んでいるはずですが、2年も経っていないのに、すっかり忘れていました。


 エピソードがいろいろあったので、ご紹介しておきます。
西園寺公望から、和歌集『蜻蛉集』を一緒に訳したジュディット・ゴーチェを紹介されたが、結局彼女とは会わなかったらしいこと(p9)。
藤田嗣治が得意のギリシャ踊りをし、いきおいあまってストーブのやかんをひっくり返し、藤村と山本鼎が火傷をしたこと(p166)。
シャンゼリゼー新劇場で、ドビュッシー自身の指揮したオーケストラを聞いたり、ガボォー音楽堂でドビュッシーのピアノによる歌曲や「子どもの領分」を聞いていること(p178)。
カイヨー蔵相の夫人が夫の非難記事への報復と、私生活の暴露を止めさせようと、フィガロ社社長カルメットを射殺した事件があったこと(p191)。
アブサンの消費量は、1913年に240,000ヘクトリットル(住民一人換算5リットル)にも達し、翌年発売が禁止されたこと(p266)。
第一次大戦中、ワインガルトナー、ゲルハルト・ハウプトマンら93名のドイツの知識人たちが、ドイツの立場を擁護するアピールを出し、フランスも、クローデルドビュッシージードら芸術家と知識人100名が、それに抗議するメモワールを発表するなど(p274)、知識人同士も言論で戦ったこと。
ドイツ軍用機タウベのパリ爆撃が始まっても、市民は一向に恐怖を感じず、タウベを見つけるために、争ってバルコンや河岸やコンコルド広場に駆けつけ、ポルト・マイヨーでは、多数の野次馬が毎夕5時から7時のあいだ押し合った(p276)、という暢気さ。
この間読んだ『暁窓追録』の栗本鋤雲が藤村の作文の教師であったこと(p357)。