清水茂の二冊

  
清水茂『遠いひびき』(舷燈社 2015年)
清水茂『翳のなかの仄明り―詩についての断想』(青樹社 2004年)


 先日読んだ『詩と呼ばれる希望』に続いて、清水茂を読んでみました。『遠いひびき』は、11章のそれぞれが独立したテーマをもった随想集、『翳のなかの仄明り』は、長年、著者が考察や感想を書き溜めていたノートから、いくつかをまとめた一種のアフォリズム集で、二冊の性格は異なります。

 『遠いひびき』は、『詩と呼ばれる希望』の翌年の出版で、冒頭のボヌフォワの思い出を綴ったエッセイは、その続篇のような性格ですが、そのほかは、死や別れ、喪失としての死、この世に残す記憶、あの世につながる扉や橋、手紙などのテーマをめぐって、静謐でもの悲しさが漂う随想が収められています。ここには清水茂の最上の部分があるように思います。

 例えば、少し長くなりますが、次のような文章。「いちばん遠いひびきは何だろうか。私がまだなかば夢のなかにいたときに、はじめて耳にしたひびきは何だったのであろうか。何も覚えていない。あれやこれやとひっきりなしに音楽を聴きたがったり、自然のなかのさまざまな物音に耳を傾けていたがったりするのは、もしかすると、いまだに想い出すこともできないその遠いひびきを探し当てたいと思っているからなのではあるまいか・・・そして、自分の人生の最後の瞬間に、もう一度だけ、それがはっきりと聞こえてくるということもありはしないだろうか」(p200)。

 一方、『翳のなかの仄明り』のアフォリズムという形式には、短さゆえに説明不足で分かりにくいところがあり、またひとりで悦に入っている自己満足的な印象もあり、あまり好感が持てません。内容も、クラシック音楽の話題をちりばめたり、海外生活の一コマに触れたりと、典型的な文化的エリートのにおいがする。私は、そういう点で、断然、『遠いひびき』の方が好み。


 このテイストの違う二冊から、共通のテーマのようなものを私なりに探ってみますと、大きく4つのテーマが見えました。
①宇宙の記憶という神秘主義的な考え方:ギリシアの墓碑に死者の記憶を永遠にとどめようとする意思を見、中世の壁画のおぼろげな色彩にはかなさを覚えた著者は、記憶が失われることへの無念さに心を痛める。著者は、神、あるいは記憶し回想し夢想する宇宙というものを想定し、「神あるいは宇宙の記憶に委ねる」という言葉に救いを求めようとしている。存在したというその事実そのものはどのような時間の作用によっても否認することはできないと。

②詩や芸術の原初のかたち:幼な児は、一切が名をもたずに実質そのものとしてそこに在る原初の世界に放り出される。成長とともにものの名を知ることにより一つの世界が開かれると同時に原初の世界は閉じていく。しかし幼な児のなかに宿り続けた原初の記憶は詩の温床となる。詩の欠如とは、人々がなまの世界との接触をとおして自らの世界像を作らなくなってしまったことから生じるものだ。

③(②の変奏として)癒しとしての芸術のあり方:かつて芸術は、中世の大聖堂のようなものも含め、苦しみを癒してくれる力を持っていた。が、現代にあっては多くは意味を放棄し苦痛や暴力を語るものになってしまっている。本来は、小鳥が巣をつくるように、魂が居場所を整えようとするのが音楽や絵画や詩である。そこには魂にとっての、どこか遠い故郷の匂いのようなものが宿っているはずだ。鳥の囀りを聞くとき、居合わせたよろこびに心を震わせるだけで、鳥の囀りを他のものと比較はしないのに、人々は、オペラ劇場で、「このまえ聴いたソプラノのほうがもっと上手だったわね」と言う。
→一方、清水は、娯楽の芸術というものに対しては、存在は認めるが、自分にとっては、それに対する批評も含めて無意味だと言う。このあたりが、文化的エリート臭があって残念だ。

④詩の意味とリズムについて:言葉には二つの側面があり、一方は意味作用だが、詩においては当然音の要素が重視される。翻訳もまた詩でなければならないとすると、リズムは作者自身の固有のものであり、翻訳者との隔たりは免れ得ないので、テクストのリズムを完璧に蘇らせることは決してできない。