ベンヤミン『ボードレール』

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ヴァルター・ベンヤミン川村二郎/野村修/円子修平訳『ボードレール』(晶文社 1975年)


 そろそろボードレール関係の本を読むのにも疲れてきました。頭が朦朧としてきたのか、意味がつかめない文章がたくさんありました。とくに「セントラル・パーク」の箴言的文章。それに文章の所々にマルクス主義の視点が見え隠れし、ボードレールの世界から離れてしまっている部分に違和感がありました。ベンヤミン鹿島茂の本などで引用や紹介は目にしていたものの、本人の書いたものはこれまで読んだことがありませんでしたが、博覧強記型の文人で、社会に対する目配りはもちろん、文学全般への造詣の深さに感心しました。

 ベンヤミンは一文芸の鑑賞者というよりは、世界全体を見究めようという哲学者で、個々の詩の解釈に耽るというよりは、自身の世界観、社会観を確かめるためにボードレールを素材にしているという印象です。19世紀のフランス社会に対する鋭く深い洞察があちこちにあり、「万国博覧会は商品の交換価値を神聖化する・・・商品の使用価値は後景に退いてしまう」(p18)、「17世紀において、アレゴリー弁証法的形象の規準であったように、19世紀においては新しさがその規準となる」(p26)といった箴言的な文章と、「第二帝政の盛時には、大通りの商店は夜の10時前には店を閉めなかった。夜歩きが盛んだったのである」(p88)、「1840年には亀をパサージュで散歩させることが、上品なことと見なされた」(p93)というような観察的文章が混在しているのが面白いところ。

 いくつか理解できた範囲のなかから概要を紹介しますと、
「パリ―19世紀の首都」においては、ボードレールの生きた時代を、産業の興隆とそれに伴う都市の変貌を人々の意識の変化とともに俯瞰し、次の「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」では、陰謀家、屑屋、群集、遊民、ヒーローとしてのダンディなど、ボードレールの詩や文章に現れた都市生活者を主として考察し、「ボードレールのいくつかのモティーフについて」では、衝撃の体験がボードレールの詩の意識性を高めたこと、ボードレールにとっての群集の意味、賭博、万物照応アウラなどを論じています。最後の「翻訳者の使命」はボードレールは出てきませんが、『悪の華』の「パリ風景」のドイツ語訳者であるベンヤミンの翻訳観が窺える文章となっています。

 見当違いの概要はさておき、個々の考察のなかで印象深かったことを私の感想と併せて書いておきます。
①新聞の本質は、新奇性、短さ、解り易さを原則として、個々の事件を相互に滲透させないように無関連に組んでいるところにあるとし、物語ができごとを報告者の生に照らし、経験として伝えようとするのと対比している。物語には語る人の痕跡が残るが、新聞には残らないと言う。これは今日の断片情報が飛び交う情報社会が新聞に始まっていることを指摘するものだと思う。記者は役所の縦割りを批判するが、情報の縦割りを作ってきたのは新聞だったということである。

②このことは、ジンメルの言葉として引用されていた「バス・鉄道・市電が発達する以前には、ひとびとが互いに一語もかわさずに数十分、どころか数時間も見つめあうことを余儀なくされるようなことは、なかった」(p72)やエンゲルスの言葉「各人が舗道の右側を歩くという暗黙の合意・・・しかし誰一人として他の人々が一瞥に価するなどとは思ってもみないのだ。残酷な無関心・・・かれらが狭い空間に凝縮されているだけに、いっそう厭わしく侮辱的に眼に映る」(p180)が示すように、同時的に社会に起ってきた断片的非連繋的なあり方と呼応するものだ。以前は空間において連携していた生活のあり方が、専門性において連携するあり方に変化したわけだ。コロナ禍によって明るみになったのは、専門性の違いによって異なる対応を迫られる社会の姿で、大胆に言ってしまえば、ほとんどが虚業だったということである。

③これもライクという人の引用で、「意識化と記憶の痕跡の残留とは同一系統のなかでは両立しえない」(p171)という言葉があったが、これは何かを思い出そうとするとき眼前の物や別の言葉に妨害されるという経験からすると、そのとおりだと思う。この後、「記憶の渣滓は・・・いちども意識にのぼらなかったときにもっとも強烈でもっとも持続的である」という言葉が続くが、これは匂いの記憶や雰囲気としての記憶が生存の根底につながるような力を持つということだろう。

④翻訳論はいささか青臭い議論のように思えた。ベンヤミンは「詩は読者の、絵は鑑賞家の、交響曲は聴衆のために書かれるのではない」(p262)と書いているが、作品を発表するからには、やはり読者を前提にしなければ意味がないのではないだろうか。問題は誰に向けて書くかということだろう。翻訳については、「原作が読者のためにあるのでないとすれば、翻訳はこの関係からどのように理解されうるのであろうか」(p263)と暗に翻訳の創作性を促すようなことを書いている。ベンヤミンの言葉では「翻訳の言語のなかに原作の反響を目覚めさせる」(p271)ということになる。