原田武『共感覚の世界観』

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 原田武『共感覚の世界観―交流する感覚の冒険』(新曜社 2010年)

 

  4年ほど前に、当時四天王寺にあった一色文庫の100円均一で買った本。目次を見て面白そうだと思ったとおり、興味を刺激する内容でした。何より冒頭から引用される文学作品の文章が、どれも心に沁みるものばかり。例えば、最初に出てくる谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の日本家屋の薄暗い室内で羊羹を味わう次のような文章。「人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う」(p1)。

 

 文学・芸術に関心のある人であれば必ず感覚の特性について一度は考えるものだと思いますが、この本は、五感の働きと、文学・芸術との関係を論じたもので、まさしくその興味に答えるものです。著者はフランス文学者ですが、音に色を感じたりする共感覚という精神分析的な分野にまで踏み込んで、探求しています。初めに提示される問題意識は、文学者が共感覚的な表現をする場合、その人が生来の共感覚者なのか、それとも比喩として使われたのか、というものですが、著者の最終意見と同じく、その区別にたいして意味があるようには思われません。

 

 私の場合の興味は、共感覚的表現が、文芸作品を豊かに美しくするというところにあります。共感覚的表現というのは喩の一種で、作品の膨らみを作るためのものという風に考えます。著者も同様のことを書いていましたが、喩の作用というのは、現実のものごとを直截に描かず曖昧にしたうえで、読者に想像力を働かせることを強要し、新しい現実感を出現させることにあります。共感覚的な五感をフルに使うことで喩の働きがより効果的になるということではないでしょうか。

 

 この本で議論されているのは、感覚の特性、五感と芸術各ジャンルとの関係、宗教における共感覚万物照応の思想、マクルーハン理論などに見られる五感と社会のあり方などですが、とくに感覚について、以下のような指摘が印象的でした。「⇒」以下は私見

①皮膚感覚に限っても、手で触ること以外に、圧覚、温覚、冷覚、痛覚などがあり、運動感覚、平衡感覚、内臓感覚など、五感だけでは捉えきれない感覚作用はいくつもあり得る。37種あるとする人もいる。

②なぜ共感覚が起こるか。例えば、通常は視覚情報を扱っている脳内部位や脳内経路に聴覚情報が漏れてしまうというような感覚漏洩説(ハリソン)がその一つの答え。

③五感の発達史を考えると、もともとアメーバのような単細胞動物には触覚しかなかったのが、対象の性質を知るための特異な感覚として味覚に分かれ(この二つが近感覚)、そのあと、次々と嗅覚、聴覚、視覚の遠感覚が生まれることになる。人類の段階になり、直立歩行で頭部が地面を離れたことから嗅覚の持つ意味が低下し、視覚刺激が優位を占めるようになる。

④古くは神の言葉を聴くことが信仰だというルターの言葉に表われているように、聴覚が感覚序列の首位にあったが、現在では、五感の代表といえばまず視覚であって、人間が取り入れる情報のほぼ80パーセントは眼によって得られるという。⇒この聴覚から視覚への転換は、印刷の普及が転機か?

⑤諸説に共通するのは、五感の基礎には触覚があるということで、共感覚の転移は「触覚→味覚→嗅覚→視覚→聴覚」の順に進むとする人もいる。

⑥宗教に香が多用されるのは、匂いと魂の類似にその源があるとルクレティウスが言っているが、空気と一体となり見えないのに確固とした存在感を保つという匂いのあり方が神の存在の仕方に等しいのではないか。

アメリカの心理学者(ケヴィン・ダンら)の研究実験で、視覚的な明暗と音の高低が連合することが証明された。

⑧触覚が事物そのものを捉えるのに対して、視覚とは単にその名称にすぎない(バークリー)。マクルーハンも、映画を文字文化の側に立つ視覚的なメディアと位置づける一方、テレビはお茶の間に侵入して視聴者にまとわりついてくる触覚的な媒体だとしている。⇒触覚の重要性に気づかされた。EメールとLINEの区別が判じがたかったが、要はLINEは触覚的ということか。セールストークでも触覚的な言葉使いが成功の秘訣なんだろう。

 

 著者はたいへんな勉強家らしく、この本も多くの引用が織りなす作品と言えます。いくつか新しい知見を得ることができました。

ランボーの「母音」の発想は、独自の着想というわけではなく、1820年から1870年にかけて、ユゴー(「街路と森の歌」)やデンマークのゲオウ・ブランデスポルトガルフェリシアーノ・カスティーリョなどが試みていて、当時、母音に色をつけるのはヨーロッパ文学の常套句であったこと(エチアンブルによる)。

little、petitなど「小ささ(chiisai)」を表わす言葉と〔i〕の音の結合が万国共通であること(ダニエル・タメットによる)。⇒これは言葉の発音と意味との間にまったく関係がないという説への反証例として有効ではないか。

ボードレールの詩「照応」には、「森のような列柱」、「堂内の陰翳」など、聖堂を連想させるモチーフがふんだんに用いられている(シャルル・モーロンによる)。

 

 「万物照応の思想は、一面、事物のあいだの対立が解消され和解を遂げるような、個物が全体のなかに抱きしめられるような、おおらかさと励ましの効果を持つ」(p155)という著者の言葉も、新鮮でした。