日本の庭に関する本二冊

f:id:ikoma-san-jin:20211005193806j:plain:w130  f:id:ikoma-san-jin:20211005193817j:plain:w180
宮元健次『月と日本建築―桂離宮から月を観る』(光文社新書 2003年)
栗田勇/岩宮武二(写真)『石の寺』(淡交社 1965年)


 異質な本ですが、同時期に読み、また二冊とも日本の庭に関連しているので並べてみました。かたや、月を軸に日本の建築や庭を論じた本で、分かり易く書かれた新書。かたや前半分を写真が占め、石の庭のある京都の寺を紹介した本、といっても、観光案内的なものでなく、美学を語った一種哲学的味わいもある美術書です。淡交社は、この頃、当時の思想家たちに日本の美を語るシリーズを出していたようで、矢内原伊作会田雄次川添登らの本を所持しています。


 『月と日本建築』は、日本の美意識に大きな位置を占める月を軸に、桂離宮伏見城銀閣寺が月をどう取り込んで設計されたか、中世の文芸や物の見方のなかで月がどう捉えられていたか、楼閣建築など月を見るためにどんな工夫がされたか、そしてそうした建物や庭を造らせた為政者はどういう思いでどんな振舞いをしたかを述べています。

 何と言っても驚くのは、桂離宮のそれぞれの建物が、月をいかに美しく見るかという一点に集中して設計されていることで、春夏秋冬に応じて、それぞれの月の昇ってくる位置にあわせて建物をその方角に向けているというところです。また秀吉が晩年、伏見の月を見るために、伏見屋敷、指月城、向島城、伏見城、指月円覚寺と、次々に建造、改築、移設を繰り返す執念、義政の銀閣寺造営に対する妄執には、凄まじいものがあります。

 それはともかく、月を見ることがいかに日本人にとって大切なことだったか。月を見るためにさまざまな工夫がなされています。楼閣というのは、もともと月が上って来るのを見るための建築で、床を高くし軒を短くしたといい、そのほか夕方の茶会の折に月を見るために開口部を大きく開いて縁側を広くとった茶亭を造ったり、橋の真中に屋根や腰掛を配した亭橋を、城にさえ月見櫓というものを造ったりしています。

 月の見方もさまざまあって、月を水に映して見るために、楼閣の前に池を配したり、池に舟を浮べたりして、上下両方の月を眺め、手水鉢に月を映しそれを掬うように手を洗ったりしたといいます。なぜこれほどまでに水面に映る月にこだわったのか。著者は、その理由として、月の虚構性をより強く感じるためと指摘しています。月自体が光を反射するという虚構で、はかないものだが、虚構である月がさらに水面に映ったさまに「もののあはれ」を感じた、と書いています。また、月の夜に、月明りを利用して見る観月能が厳島神社や各地の屋外の能舞台で実施されているのは、月が夢幻的な能の内容にふさわしい幽玄美を持っているからと説明しています。

 ほかに、一般の民衆の間にも、月の出に向かって歩きながら月を待つ「迎待ち」や、川の岸に立って待つ「瀬待ち」という風習が広まって、江戸時代には大勢の人々が海辺や高台に群れをなして集まったということで、観月の習慣がほとんど見られない西欧との違いを指摘しています。

 金閣寺が上二層に金箔が施されているのと違って、銀閣寺は表立って銀を使っていないのに、なぜ銀閣と呼ばれるようになったか。実は軒下に銀箔を施していた可能性が高く、池や銀沙灘(ぎんしゃだん)という白砂に反射した月光を、さらに軒下に反射させて家のなかに光をもたらすための仕掛けであったと推測しています。銀閣寺には、ほかにも月の出を待つための月待山や、水面に映った月を洗うということから名づけられた洗月泉という滝、それに向月台という砂の台があり、観月をかなり意識した建物であったことが分かります。

 その銀閣寺の造営に晩年の精力をつぎ込み、結局完成を見ずして亡くなった足利義政は、この本を読む限りでは、かなりな馬鹿殿ぶりで、あきれるほかはありません。異常気象がもとで大飢饉が発生し、1460年には、1,2ヶ月のあいだで、京都で当時の人口の約半数の約8万2千人の餓死者が出たというときに花見の宴をはったり、自らが応仁の乱を引き起こすもととなって京都が地獄絵のように破壊されているのに、戦乱をよそ目に、湯水のように酒をくらい能を舞っていたといいます。さらに銀閣を造るために、自らあちこちの寺へ出向いて木々や石を見つけては、それを強引に銀閣に運ばせるという掠奪のようなこともやっています。


 『石の寺』の著者栗田勇は、もとはロートレアモンの翻訳などをしたフランス文学者ですが、日本文化に関する本をたくさん書いています。フランス文学者の多くが、長じて日本文学の専門家のようになったり、日本文化の伝道者のようになるとよく言われますが、著者はその代表格のひとりのようです。近代文学や芸術を研究しているうちに、西欧的な作家崇拝や芸術崇拝の傾向が鼻についたり、現代文学や現代芸術が前衛的になったりするのに嫌気がさして、日本の伝統的な美意識に向かって行ったような気がします。

 しかしそうは言っても、フランス文学者らしい視点があちこちに見られました。例えば、茶庭の飛び石が一直線に方向を示さず、とぎれとぎれでばらばらなところに、大きくゆるやかなリズムを感じとり、そこに手段を目的化する深い考え方を見て、それをヴァレリーの舞踏の理論になぞらえたり、石のうちに生動する気韻を説明するのにボードレールの「万物照応」の詩を引用しています。本の最後も、ジッドの『地の糧』かららしき言葉で締めくくっています。

 いくつかの印象的な論述を書いておきます。
①自然そのものに、美しいという要素がはじめからあるはずはなく、美しいと見る人間がいて、初めて自然の美しさが生まれる。また、美を理解するために解説を知ることは有益だが、解説にもとづいても美は再構成することはできない、という美についての二つの指摘。

②庭のなかでの石の特性を、垂直性と堅固感に見ていること。水はつねに平らであり、土もときに起伏するとはいえ、垂直に屹立するものではない。また水や土は連続的なものであるが、石は断絶したリズムを刻み、打楽器のような効果をもたらしているとする。

③庭園を仏像に代わる仏教芸術上の現象として捉えていること。禅宗の勃興とともに、それまでの浄土信仰とそれにともなう仏像崇拝が下火になり、その代わりに自然との合一が目ざされるようになり、自然の模倣である庭園造型に置き換わっていったという。

禅宗の特徴を、思想内容そのものよりも、禅林という知識人の集団のサロンとしての役割に見ているところ。信仰の人も技芸の人もあつまって、絵画、詩文、漢学、梵唄にいたる高度の文化集団を形成していたらしい(この部分は太田博太郎、玉村武二からの祖述)。

 バロックは装飾的だが、不定形な創造の気持ちをそのまま移りかわる形にしたもので、様式ではないとし、ロマンチックも創造する過程の美で、様式的ではないとしています。気持ちは分かりますが、様式というものは必ずどこかに表われているもので、それまでのルネサンスやクラシックの様式を、過剰にしたり不安定にさせたりする様式が見られるということでしょう。

 また西洋音楽を精神の秩序とみたり、西洋建築を静的な調和を大前提としているというふうに西洋を秩序と捉え、日本を、調和や秩序からはみ出す動的で劇的な激しい情念と見ようとしていますが、主観的な思い込みが過ぎるようで、その反対の例はいくらでも見つかるように思います。