日本の庭についての本二冊

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海野弘『都市の庭、森の庭―未知なる庭園への旅』(新潮選書 1983年)
奈良本辰也『京都の庭』(河出新書 1966年)


 いよいよ日本の庭が中心の本です。この二冊に共通するのは、アットランダムな個々の庭の探訪が主軸になっているところです。正面を切って、庭園を歴史的に叙述したり、庭の特徴を分類したり、作庭家を系統だって追ったり、歴史や思想との影響関係を論じたりしていません。ところどころにそうしたものの片鱗が出てくるという作りになっています。

 海野弘は、どちらかというと西洋のとくに19世紀から20世紀にかけての美術を中心として芸術、都市文化に詳しい人で、学生の頃から愛読しておりましたが、日本の庭というのが意外な感じがしました。と言っても、この本は前半でこそ、いろいろと庭について語っていますが、後半は旅日記風の味わいとなっています。奈良本辰也も学生の頃よく聞いた名前ですが、今回初めて読みました。断言的な表現に時代を感じさせるところがあります。

 これらの本で取り上げられている有名な庭のうち、いくつかの庭には行ったことがあるはずですが、まったく覚えていないのが情けない。『都市の庭、森の庭』の方は写真、『京都の庭』には庭の絵が添えられていますが、写真は白黒で不鮮明、絵はぼやけた画き方なので、庭のかたちがよく分からないのが難点。目の前に庭、あるいは庭の写真を見ながらでなければ、文章でいくら説明されてもイメージが湧いてこないのは、私の想像力の欠如が原因かもしれませんが、困ったものです。

 そんな状態に加えて、日本史の素養も薄く、結局、この二冊について正しく理解できたかは心もとないですが、心に留まったものを記してみますと、
『都市の庭、森の庭』では、
①庭のニは土のことであり、ハというのは場のことで、ニハというのは土場のことだといわれているように、庭というのは作業場でもあった。一方、人間は、道や空間を実用を目的として生活のために作るが、空間に戯れることがあり、それが庭であった。

②「温泉というのは庭に関係があるのではないか。そもそもお風呂というのは庭なのではないだろうか」(p83)という記述があったが、西洋の庭でも泉が欠かせないのと通じるのだろう。

ラフカディオ・ハーンの美学にヴェイパー(水気)というキーワードを見ていること。それは、すべてを彩る暁の黄金の霧のように、さだかならぬもの、かくされたもの、見えない気配であり、雲、霧、雨、雪とさまざまに変化してゆく混沌としたもの、アンフォルメルなものである、という。→これはまさしく象徴主義的美学ではないか。

④「庭は、過去の永遠の時を閉じこめておく器なのではないだろうか」(p164)というふうに、庭はその時代の様式を留めていると書いている。たしかに建築物は焼失したり崩れたりするが、残存するものもある。なにより永遠の時を閉じこめているのは山、川、海の自然だろう。

 ほかに、神戸のトア・ロードの西側には中華料理店が多く、東側にはステーキ・ハウスが多いという指摘や、グレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』の「おれは殺されようとしている―そのことをヘイルは、ブライトンに来て三時間と経たないうちに知った」という冒頭部の引用が印象的。


 『京都の庭』を読んで、いつかまた行ってみたいと思った庭は、
「ならべられた十五の石がいずれの方角からながめてもひとつだけ隠れて十四しかみられない」(p9)という龍安寺の庭、

「あの静まりかえって、しかも胸にせまるような圧力を感じさせる滝の石組こそは、仏を刻むかわりに山水をもってした夢窓の異常なまでに鋭い求道の精神をあらわしている」(p45)という西芳寺枯山水

「銀沙灘の大砂盛が幻のように鈍色の光をはなって・・・月光が淡い縞を織り、洗月泉の滝の音に相応じて、不思議な夢の諧調音を奏で始める」(p60)という夜の銀閣寺、

瀟湘八景とか近江八景を写したと言われている孤蓬庵の庭、

小書院を東方にむかって障子をあけはなったときの景色がすばらしいという桂離宮

「岩の怪異さといい、蘇鉄がただよわす異国的な匂いといい、また夢を追うかのようにあるともなくたっている石塔といい、すべてが詩文を介してみた中国文化へのあこがれとなっている」(p144)という詩仙堂

 ほかに、金閣寺の黄金は、卑しむべき黄金趣味、権力の誇示ではなく、黄金はたんなる色彩で、浄土の世界を追求したに過ぎないという指摘や、江戸時代以後、庭の表現がひとつの形式を踏襲するだけで、こわばっていくという江戸の大名庭園に対する京都の学者らしい口吻が印象に残っています。