作家の書いた「日本の庭」二冊

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室生犀星『日本の庭』(朝日新聞社 1943年)
立原正秋『日本の庭』(新潮文庫 1983年)


 日本の庭についての本。同じ作家で、しかも二人とも寺で育ったという境遇も同じ。しかし印象がまるで違った本になっています。生きていた時代が異なるせいもありますが、やはりご本人の性格に主たる要因があるように思います。後で説明するように、私は室生派です。


 室生犀星の本は、前半が、石や竹、垣根、木や花など、庭の細部の作りについての考え方を述べ、それが鳥についての話あたりから次第に庭から離れて随筆の味わいを強め、日誌風の記述となって、小杉天外徳田秋声らと酒を飲む話や、哈爾濱を訪れた話、金沢から馬込に庭を移設する話などがあり、最後に京都の庭の探訪記が付いているといった構成です。

 批評家や研究者の目線でなく、実際に馬込の自邸と金沢の別邸に庭を作った愛好者だけあって、着眼点も個性的です。例えば、見るときの時刻や天候の状態によって、庭の美しさの変化を描いているところ。朝日の出る前の石の面の落着きのある奥ゆかしさや、日没前一時間くらいの夕暮れの庭の美しさ、夜来の雨じめりで濡れた石が空明りを仄かに慕っているさま、霜で荒れた土がむくみ下が凍って上が灰のように乾いた冬の庭の味わいの深さなど。

 また、さすが作家で詩人の筆だけあって、微細な想像力、微妙な表現がすばらしい。これまで読んできた庭の本と違って、論理よりも文章の綾で読ませるところがあります。例えば、そのまま引用しますと(ただし新仮名遣いに変えている)。

わたくしは石の上の蝸牛、いなご、せきれいの影を慕うものであるが、真寂しい曇天或いは雨日の景をも恋うものである/p36

燈籠が木と木との隙間から木の葉の蒼みより最っと深い蒼みで、すれすれに姿をかくしているのは清幽限無きものである/p39

松のみどりは冷たく幹は温かいものである。石は枝を透いた日を帯びてしばらくは秋をとどめている/p48

日本の水仙・・・陶器でいえば青磁のような透明な感じ・・・青磁は形態から飽きても質から飽きるものではない/p79

冬すみれ・・・蕾を破って見るなら、まだ紫には間のあるうすあかい色の花弁が、幾重にも累なり包まれていることに気がつくだろう/p85

京城に旅して二基の石人を伴うて帰って来たがこの等身の石人は私が庭を歩くとうしろから就いて来もするし、街区に乱酔した時に眼にするのもこのふたりの石人である。深夜の庭に戻ればこれらの石や石仏らは私の留守中に山も崩れんばかりに笑いさざめき、層塔は叫び石仏は艶笑し五輪塔や屋敷神は踊るのである/p99

小鳥を商う男とか、亀やうなぎの命をとる男とか、凡て生きているものを取り扱うて商いにしている人間が持っている特有な、どこか浅猿しい衰えようでもあった。彼自身の病気はさることながら、その他から来ている特異な憑きもののような気はいも、その病気の上に感じないわけにゆかなかった/p220

 室生の庭や石の趣味には、中国を範としていた昔の文人趣味の名残があるような気がします。戦前の作家には、川端にしても谷崎にしても、文学以外の趣味素養が豊かだったように思います。今の作家についてはよく知りませんが、どうでしょうか。庭いじりというのは、老成した感じを受けますが、室生犀星がこの本を書いたときはまだ54歳でした。


 立原の文章も、昔の文士風の文体ですが、室生が愚かさもまじえ素直にさらけ出しているのとは対照的に、少し上から目線で気取った印象。青山二郎小林秀雄に通じるような断言調があります。自分の美学にかなりのこだわりを持っている様子で、この庭はつまらないと一刀両断していますが、主観だけで説明もあまりないので、非常に分かりにくい。また美とか芸術といったものを神格化し、人格を絶対的なものとみなし、かつ具体的な理由も提示しないまま、「この人達はやはり天才であった」とか、「彼はまぎれもない芸術家だった」、「遠州がやはり人物だったからだろう」などと書いているのを見ると、少々げんなりしてしまいます。

 真面目でストイックな人だと思いますが、他人に対して難癖をつけ、悪しざまに言う箇所が多すぎるのが気になりました。以前小説を読んだときも、男尊女卑が露わに出ていて不愉快になったことを思い出しました。何か幼少期に不幸なことがあって、ルサンチマンが募っているのだとすれば、気の毒なことです。

 つい興奮して悪いことばかり書いてしまいましたが、有益だったことを挙げますと、「侘び」という言葉の説明で、不自由、不足、不調にあってその念を抱かぬ、という意味づけがあるのを知ったこと。枯山水は、禅や悟りという理念よりも、たんに暗さから逃れるために造られたものと指摘していること。一休の、自らの虚栄を見据え、情欲、嫉妬を隠そうともしない態度、かつそれが自己顕示であることも自覚していた、という凄さを知ったこと。道元は、禅僧が文筆詩歌を嗜むのを戒めているが、自らは、「人の悟をうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおおきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる」という名文を残していること。

 巻頭のカラー写真を見て、行ってみたいと思った場所は、妙心寺春光院の茶席「来也軒」に通じる露地、浴竜池をへだてて鞍馬・貴船の山並みが見えるという修学院の隣雲亭、桂離宮の書院を正面に見る池の中の園林堂、これも修学院の窮邃亭から降りたところにある土橋、山形有朋の別荘だった無鄰菴。