ジャン・ドリュモー『地上の楽園』

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ジャン・ドリュモー西澤文昭/小野潮訳『楽園の歴史① 地上の楽園』(新評論 2000年)


 前回に引き続き楽園についての本。これは楽園がどう誕生し、どう考えられてきたかを文献に基づいて歴史的に展望した書物です。全体の構成もしっかりしていて、この本を一冊読めば西洋における楽園の歴史はほぼ理解できるように仕上がっています。「はじめに」で、「私はひとつの原則を自分に課した・・・その原則とは一次資料とつねに接触を保ち続けるということ」(p2)と書いているように、かなり資料を読みこんだ形跡があり、説得力はありますが、羅列が延々と続くのはいささかげんなり。

 いちばん面白かったのは、16世紀から啓蒙の時代にかけて楽園観が大きく変化していくところです。私の理解した範囲で要約してみますが、あまりに平易にしすぎて大事な部分が抜け落ちているのではと心配です。
ギリシア・ローマには黄金時代、幸福の島のモチーフがあり、東洋の諸宗教にも聖なる庭の神話があり、創世記にはエデンの園が存在した。共通するのは起源に幸福があったということである。初期キリスト教神学者たちは黄金時代、幸福の島のモチーフを拒否し続けていたが、2世紀ごろから徐々にキリスト教化して混交して行った。

②当時のキリスト神学者たちに共通したのはエデンの園が実在したという確信であり、ほとんどの神学者最後の審判で正しい人が復活を前に待機する場所と同じものと考えた。→西洋の墓碑銘に「ここに憩う」、「ここに眠る」とか書かれているのは、一時的に休んで復活を待機しているという思想の現われという。

③中世を通じて、地球上のどこかに地上の楽園があるとして、その場所を特定しようとして諸説が生まれ、ある者は山の頂、ある者は赤道上、またある者はインドの東端にあると考えた。それに関連して、地球上のどこかに未知のキリスト教の王国が存在するという見聞も出てきて、中央アジアエチオピアにその王国があると信じる者もいた。→実際にネストリウス派の国が中央アジアに存在し、ローマ法王に謁見していたようだ。

④14世紀ごろから、こうした説を裏づけるものとして、マルコ・ポーロやオドリコ、マンデヴィル、エンリケ航海王の兄ドン・ペドロ王子らの旅行記が一定の役割を果たし、アイルランドの伝説の影響なども加わり想像力をかき立てた。

⑤地上の楽園を発見したいという野望、終末が近いという確信、新しい地に宗教を広げたいという信仰心、金、宝石、珍しいものを得ようという欲望が、ヨーロッパの人々を駆り立てた。15世紀には、大西洋の島々の発見に始まり、アメリカ大陸に到達して、黄金の国、地上の楽園が間近にあると感じ、必死に探し回った。→エデンの知恵の木の実と目された果物にパッション(受難)フルーツという名を与えたりした。

⑥16世紀に入ると、この世に地上の楽園の存在があると信じる力が消えて行く一方、失われた楽園への郷愁が高まることになった。黄金時代を懐かしんだり、キリスト教的な閉じられた庭を描く文学作品や図像が多数生まれ、貴族の別荘など実際に庭園を作ることが流行し、植物園も誕生した。

⑦最新の地理的発見と、この頃に萌芽してきた合理的精神のもとで、エデンの園に関する古い時代の考えに次々と疑問が突きつけられた。面白いので列挙すると、
もし庭園から追放されてなかったら、子孫が増えてそんな狭い庭に住み続けることができただろうか。
楽園の広さはどれくらいだったのだろうか。
すべての獣が集まり、すべての鳥が飛んだら、歓びよりもむしろ恐怖の光景を呈したであろう。
アダムは大人の状態で誕生したのか。もしそうであれば年齢と身長は?イヴはどうだったか、髪の毛の色は?。
神は何語でその命令をアダムとイヴに伝えたのだろうか。
楽園の自分が耕した土地や収穫した果実に対して、個人の特別の権利は認められなかったのか。

⑧18世紀には、「創世記」の歴史的真実性が徐々に疑問に付された。化石や地層についての理解が深まり、地球の成立が創世記の記述より古いものと考えられるようになり、また生物の種がいきなり創造されたのではなく、時間の経過によって形成されたものであるという進化論的主張が登場してきた。結局、地上の楽園は象徴的な意味合いのものと位置づけられるようになった。

 読み始めてすぐどこかで読んだ気がして、探してみると、つい先日読んだ「ユリイカ 空中庭園」の竹下節子評論にほぼ同じ部分があることが分かりました。末尾に参考文献として名前が挙がっていました。