:湯沢英彦『魂のたそがれ』

                                   
湯沢英彦『魂のたそがれ―世紀末フランス文学試論』(水声社 2013年)
                                   
 珍しく新刊本。本屋でタイトルに惹かれ、目次のジャン・ロラン象牙と陶酔のお姫さまたち』が目に留まり、迷わずに買いました。

 一読後の印象は、副題の「世紀末フランス文学試論」に充分応えきれていないというものでした。著者の問題意識は近代的な自我の溶解という一点にあり、19世紀末の小説作品のなかで、それがどんな形で現われているか、そして作家たちはそれに対して肯定的か、それとも旧来の伝統を守ろうとしているのかを、作品に沿って見ようというところにあります。その問題意識に沿って論じてられているので、全体を通じて論理は首尾一貫していますが、世紀末の総体が捉えられているかというとそうでもない。これは編集者の副題のつけ方が間違っていたのだと思います。

 もう一つ世紀末全体に迫った感じがしないのは、取りあげられている作家が少ないのと、さらにその作家のなかでも作品が限定されていることで、どうしても断片的な感じになってしまっているからでしょう。はじめに作品ありきで、個々の作品の細部の鑑賞が中心になっています。著者自身もそのことを意識しているのか、「はじめに」のなかで、世紀末文芸通史風な体裁を整えるよりは、個々の作品にできるだけ寄り添いたいといった表現で自己弁護をしていました。

 取りあげられている作家は、ユイスマンス、ラシルド、メーテルランク、ジャン・ロラン、クラルティ(この人は初耳)、プルーストで、リラダンマラルメにも言及がありました。著者はプルーストが専門のようで、どうやら上記の問題意識もプルーストが出発点のようです。プルーストを扱った章がいちばん面白かったので、この部分をもっと聞きたいと思いました。取りあげられていた作品のなかでは、やはりジャン・ロランの『象牙と陶酔のお姫さまたち』が群を抜いて素晴らしい。ユイスマンスにはあまり興味はありませんでしたが、『仮泊』は面白そうです。

 第八章では写真(アジェ)、第九章では精神医学、心理学、第十章では現代絵画(デュシャン)が取りあげられているのは、いかにも唐突ですが、これも上記の問題意識からは納得がいきます。なので副題を「フランス世紀末に見る自我の溶解」ぐらいにしておけばよかったのではないでしょうか。

 世紀末の表象として取り上げられているのは、斬首(魂と身体の絆の切断)、人工的な人間であるピエロ、化粧や大げさな立居振舞そして冗舌で表面を過剰に蔽ったブーグロン氏、蠟人形・マネキン人形の魂の欠落した身体、女性の心を持った男と男の心を持った女、仮面の下の空無、制御不可能な〈他〉の圧倒的な現れである腐った死体、空っぽの身体、神経症が開示する測りがたい精神の暗部などですが、これらに共通する内面と外面の関係の歪みが、世紀末の特徴だとしています。それは内面にふさわしく外面が表われるという近代的な自我の概念が成り立ちにくくなっていることを示しています。

 面白いと思ったのは、神経症の諸症状が、人格を麻痺させてそれを崩壊に導くという意味において、ものを変質させる腐敗現象とパラレルにとらえられているところや(p115)、人格もまた「連合した実体」で、ある一定時間における、いくつかの明晰な意識の諸状態の凝集だというテオデュール・リボの説で(p240)、生命現象のみならず精神の現象にもネゲントロピーの法則が見られることを指摘したところです。

 それはまた、プルーストが、魂は時間の経過とともに新たなものが加算され、それとともに変化を被って行くものだと考えていること(p255)にも共通するものだと思います。著者は、主体の趣味嗜好や感受性に作品の源を置く西洋近代の伝統の外に立とうとするデュシャンと、そこに踏みとどまろうとするプルーストを対照的に語っていますが、私はもちろんプルーストの側に立ちたい。


 いくつかの美しい文章に出会いました。

吊り下げられた仔牛の重たい頭や揃いも揃ってみな右ひねりの長い舌、菜園で怪しく震えるお尻、また、鮮血に染まった眼窩から青い目玉が出入りする水槽の女(ユイスマンス『仮泊』)/p129

腐肉と屍骸が祭壇から古びた階段まで転がり、そしてその先は河泥の中に埋まっていて、腐った水が血で粘性を帯びていた。蠅と蚊がそこで陽をあびて繁殖し、それを待ち伏せする蛙や、亀の頭をした不潔な蜥蜴がいた。夜になると、蝙蝠と青白い蛍が死体の山の上を舞い飛ぶのだった。この汚辱、この殺戮と血膿の花咲くところに、幼いファラオの崇高な夢想が行き着いたのであった。(ジャン・ロラン「ナルキス」)/p168

この神秘な花弁や石化した樹木のなかに、奇妙な、しかもうるわしい樹がある。それは青い薫香の煙がながい歳月のあいだに色褪せながら凝結し、捩れくねって螺旋形の円柱をなしたかのような連想すら抱かせるのである。(ユイスマンス『出発』)/p201