:鶴ヶ谷真一『月光に書を読む』


 鶴ヶ谷真一の本はこれで4冊読んだことになりますが、初めて『書を読んで羊を失う』と出会った後は、一度も期待を裏切られたことがありません。

 これまでの作品でも共通していますが、和漢籍の書物に造詣深いと同時に、古典から現代に至るまでの西洋の書物にも詳しく、またその博覧強記ぶりに少しも嫌味がなく不自然さがありません。そして穏やかで優しい語り口、音や光、香りに満ちた生活の情景が浮かんでくるような文章力。

 この本にも引用されていますが、高橋英夫があげた柴田宵曲の文章の特徴と同じことが、鶴ヶ谷真一の文章についてもあてはまるでしょう。

①博覧強記であること、②なだらかに温順淡白で、いたずらに力んでごつごつした所がないこと、③市中隠逸の処士であったこと、こうした3つの特色が互いに自然に溶けあって文章はモデラートのテンポで進み、読者に無用の負担を及ぼすようなことがない。/p106

 この本は、「月光に書を読む」「素白点描」「読書人柴田宵曲」の3編からなり、「月光に書を読む」は読書や書物や言葉にまつわるいくつかのエッセイをまとめたものとなっています。

 例えば冒頭の一編「月光と灯火」では、凡夫であれば「蛍の光」の歌で知っている蛍雪や窓の雪のエピソードぐらいしか出てこないところが、鶴ヶ谷氏の手にかかると、自然の光で書を読むことについての古今東西のさまざまなエピソードが、縦横無尽にかつ相互に関連付けて味わい深く語られることになります。

 同様の調子で、言葉の中の音の要素、鳥語を解する人の話、J・G・バラード「溺れた巨人」とポール・ガデンス「鯨」との比較、記憶力などについて、さまざまなエピソードを交え語られます。


 岩本素白についての文章は、素白の魅力がたっぷりと伝わるようにと、引用を中心にして語られますが、どこからが素白でどこまでが鶴ヶ谷か、渾然一体となった境地に誘われます。


 鶴ヶ谷真一氏はどこかの出版社の編集者(すでにリタイア?)ということは分かっていますが、どういう経歴で、どんな本を手がけられたのか興味をそそられます。


恒例により印象に残ったフレーズ。

終末のとき「天は巻物を捲くごとく去りゆき・・・」(黙示録6・14)。世界は一巻の書物に喩えられた。それは、この世界が神によって創造されたという教えのもとにあって初めて可能となるメタファであったにちがいない。/p22

ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ・・・「ハ行の音がきれいですね」というひと言に、目をさまされるような思い・・・読み慣れない旧かなの文章を美しいと思うのは、「思ふ」「うつろひ」など、ハ行の音を多用するためではないかとも考えた。/p29

奈良の春日大社の大鳥居の左右にある一対の桜が、吉野山の見合わせ桜とされていた。世にある桜が遠近相呼応して咲くという、この晴れやかな万物照応の小さな世界。/p46

「人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられる」(プラトンパイドロス』)/p75

「一民族は勝つことを知るのみでなく、敗れることも心得ていなければならない。敗北を生のさまざまな相貌の一つと見る用意がないということは、精神的な貧困のしるしである。」(オルテガ・イ・ガゼット)/p202