:井本英一の本二冊

///          
井本英一『古代の日本とイラン』(學生社 1984年)
井本英一『飛鳥とペルシア―死と再生の構図にみる』(小学館 1984年)


 日本とペルシアに関する本を続けて読んでいます。この二冊は刊行年は同じように見えても、『古代の日本とイラン』は初刷りが1980年なので、少し古い。『飛鳥とペルシア』の方は、先日の仙台旅行の際に読もうと鞄に入れて、取り出してすぐ読んだことがあると判明しました。時すでに遅く、再読することにしました。

 井本英一はまだこの二冊しか読んでませんが、古代の宗教や神話について造詣が深く、読んでいて興味をそそられるような面白い話が次から次へと出てきます。ただ、両書ともいろんな雑誌に掲載した異なったテーマのものを並べて構成した本なので、あちこちに重複があったり、またばらばらな印象がありましたけれど。

 どうも李家正文といい、杉山二郎といい、物知りの人は話があちこち飛んでまとまりに欠けるところがあります。それとこちらに真偽を判断する能力がないので疑うわけではありませんが、若干山師的な大雑把なところもあるような気がします。

 例がたくさん挙げられていて、それらをつなぐ論理は著者には歴然としているに違いないですが、私にはよく読みとれないので頭が混乱してきます。というのは逆で、はじめから私の頭が混乱しているから、その論理が見えないのでしょう。例えば『古代の日本とイラン』第六章「古代仏教とゾロアスター教」では、いろんな宗教の話がめまぐるしく比較対照され交錯して、何が何だか分からなくなってしまいました。


 『古代の日本とイラン』では、盂蘭盆会がイラン起源だったという話、古今東西に見られるまだらの表象、ゾロアスター教の教義と仏教・ヒンドゥー教との関係、十字形の伝播、分身を見る話、神の変身、古代日本の言葉の探求などが連綿と続き、それらがお互いに関連して叙述されています。その中心にあるのは、次の本の副題にもなっている「死と再生」や「穢れと聖性」、「境界」という概念のようです。


 『飛鳥とペルシア』では、イザナギノミコトとイシュタルなどいろんな冥界下りの例を挙げ、穢れについて各国の風習や神話を比較し、飛鳥の岩船の起源をカアバに求め、生まれた太子が父王を殺すモチーフを各地に探り、当麻寺の中将姫伝説に西アジアの穀霊の復活儀礼のヴァリエーションを見、聖徳太子一族の死と古代ローマの死の儀礼とを重ね合わせたりしています。


 とにかく頭が混乱しているので(忘年会の二日酔いのせいかもしれない)、下手に要約するよりは、印象に残った部分を下記に。

盂蘭盆・・・はイラン語で「正信者の(霊の祭)」の意である。もとはゾロアスター教徒の祭りであった。/p18

犬は、あの世とこの世、それは聖界と俗界でもよい、の使者であると広く考えられていた・・・器、哭、献、猷もみな犬の生けにえと関係がある/p46

ギリシア神話ケルベロスは、もとは、斑という意味で、・・・後世の美術では三頭になっているが、古くは二頭一体の犬である。・・・死を象徴する黄犬と生を象徴する白犬が合体したことがわかった。/p46

多くの民族は、死体が白骨化し穢れが消滅する期間を特定していたようである。代表的なのは仏教の中有四十九日、キリスト教の復活祭前の四旬節である。/p61

足なえの意味は、直立の反対の意味をもっていて、再生においては樹木(杖)のごとく直立するのを予測した負の概念であったと思う。/p137

千手観音像の千手も翼と考えられるもので、観音は健闥婆ではないがその翼は西アジアのモチーフの影響を受けたものである。/p199

阿吽の金剛力士像や狛犬は発生的には二にして一なる個体で、左右に並置されるばあいも、履物だけは片方ずつという形式をとっているのではないかと思う。/p213

以上、『古代の日本とイラン』

反世界である冥界では、いつも灰が食物になっている。灰というようなものを食べるのは、冥界に触れることなのです。/p21

正月飾りは西アジアの有翼円盤を、東洋風にしたものです。/p29

スサノヲの乱暴・・・これらの行為は単なる乱暴ではなく、人為的に作り出す混沌の状態であった。この混沌の状態から秩序の状態に移行するのが、古代人が最も関心を示したことがらの一つであった。/p72

「大地の胎」を漢訳した「地蔵」は、ほんらいは大地のへそ(ヘブライ人の祭壇の聖石、メッカのカアバ神殿など)の一つであり、境界石でもあった。/p81
異教徒時代のカアバ・・・入口にもっとも近い柱には、イエスとマリアの像が彫ってあった。/p100

豆、灰、種子などは、魔除けの呪物とみられている。しかし、その根底にあるものは、死と再生の境界にある穢れであったといえる。/p186

以上、『飛鳥とペルシア』