井本英一『境界・祭祀空間』

 f:id:ikoma-san-jin:20190614092818j:plain

井本英一『境界・祭祀空間』(平河出版社 1994年)

 

 読んでいるうちに頭がくらくらしてきました。というのは、いちおう項目別に整理されているにもかかわらず、同じ話があちこちに出てきて、迷宮に入りこんだような気になってしまうからです。そのうえに、その話の半分以上が、著者のこれまでの本のどこかで読んだことのある、というかそう思えるものなので一層です。しかし、いかんせん頭の中にきちんと覚えていないので、それがどこかと問われれば答えようもありません。著者の本をずらりと並べて、全体を整理して項目・テーマ別に並べ直したら、すっきりするものができるでしょうが、そんな力もありません。それで一度頭を白紙にして、もし古代人になってみて聖なる場所をどこかに特定しようとするならどうするかと、考えてみました。

 

 まず考えつくのは、尋常ではない場所。巨岩だとか、滝とか、大きな穴、陸続きの島、聳える山、大地から一つだけ盛り上がった丘。神の力が働いているとしか思えないような自然の不思議さが実感できるところです。次に、身近なところでは、囲われた場所。自然な形では、湖や池の中の島が最適。普通の場所なら、その場所の周囲を堀や垣で囲むことになります。それがさらに簡略化されれば、四隅や入口に柱を立てる、あるいは段を作って高くするというふうに。境界が重要になるのは、そうした聖別された空間と日常的な空間を隔てるものだからでしょう。

 

 地形的な場所ではなく、人生の段階で考えれば、誕生と死の場所。とくに死後の世界につながる墓。あるいは日々の生活で聖なるものを考えると、日常から離れて、清新な気持ちにさせるもの。風呂に入る、酒を飲む、服を変える、爪を切る、散髪する、特別なものを食べるとかが思い浮かびます。再生を感じる場面としては、二日酔いとか、賭けですってんてんになり呆然となった状態で、再生するためにはその前に仮死状態のようなものが必要というわけです。

 

 と、本から離れて、テキトーなことを書いてみました。重複ばかりとは言っても、いくつかの新しい指摘も目に留まりました(単に忘れているだけかもしれない)。概略を記します。

大嘗祭では、天皇が衾という布団のようなものに覆われて仮死状態を演じる儀式がある。この衾が中国の王権移行の際には先王の死骸を覆っていたものを用いていたことから分かるように、大嘗祭は再生の儀式であり、衾の原形は羊膜であった。また、古代イランでは王権を手に入れる場合裸になったが、大嘗祭では着衣のまま入水する。

伊勢神宮神嘗祭の翌日、天武天皇が有力者を召してサイコロ戯をさせたというのは、大地母神デメテルが冥界でランプシニスト王とサイコロ戯をしたのと同じで、境界を通過する際の模擬闘争を意味している。古代中国でも冬至には博打を解禁していた。祭日に博打、勝負ごとをするのは再生の境界における闘争儀礼の名残りである。

③境界につくられる石塚や土饅頭は一種の三角表象であり、服喪の家で三本の棒を斜めに組んで戸口に立てる左義長といわれるものは一種のピラミッドと考えられる。また四角い紙の対角線の方向に忌の字を書き、角が上にくるようにして、入口に貼ったり、あるいは死者の額に三角の紙をあてがうのも三角表象。これらは祭壇の観念から発達したものである。

④仏像の頭に釘を打ち込むことは、許すべからざる行為とみなされるが、古くは、仏像の聖性をつなぎとめるための行為であった。神殿の壁にも釘がよく打ち込まれているのはそこが境界であるからであり、仏像に釘を打つのと同じ意味がある。

⑤古代には、敵を破るのにしばしば詐術にたよったが、詐術はたんなるぺてんではなく、知恵や精神の優位を表わすものであった。

 

 神話的あるいは珍妙なイメージとしては次のようなものがありました(文章は少し変えています)。

17世紀のイスファハンでは、貧しい人々が自らを埋葬する習慣があった。口まで地中に身を入れ、残りの頭の部分を特別に作った土器で覆う。彼らは一日中、このままの姿で過ごす(p19)。

中国の富豪の息子が美女を探しに行く。ある寺の仏の乳房をもち上げると、穴があいた。穴に入ると、立派な城があった。息子は歓待された。ふと帰郷したくなった。地上からさらわれてきていた伎女が、鋤で東のかきに穴を開け、息子をおし出した。そこは長安の東の場所であった(p197)。

中国の長者の子の指から四方に光を放った。長者の家が傾き、その子燈指は乞食となり狂って、屍骸を背負って王宮に入ろうとするが、追い返される。家に帰ると、屍骸が黄金の頭と手足になり、大金持となる。阿闍世王がこれを取ろうとすると、死人の頭・手足となる(p224)。

英雄ヨロの敵のラマ僧が、ヨロの目を刺すために、自分の外魂であるスズメバチを送った。ヨロはハチを手に掴み、手を閉じたり開いたりする。とラマ僧は、失神したり意識を回復したりした(p227)。

冥界の女王はイナンナ(イシュタルのアッカド版)を死体に変えて釘に掛ける。イナンナの父は娘を呼び戻すために二人を冥界へ送る。二人は、冥界の女王から釘に掛かった死体をもらい、生命の食物と生命の水を与えると、イオンナはよみがえった(p280)。

 

 目からうろこの発見がありました。浦島伝説の玉手箱に入っていたものは実は浦島自身の魂で、それで玉手箱を開けたとき魂どおりの老人になったということです。それに関連して、死体の首に掛ける頭陀袋は、現在は故人が日常愛用した小物や渡船用のビタ銭などを入れますが、本来は魂を入れる袋だったということです(p248,250)。

 

 ひとつ得意になったことは、著者が「仏画にはヘソから蓮花が生え出るものがある。どのような典拠があるのか知らない」(p320)と書いていますが、これは先日読んだ吉田敦彦『天地創造神話の謎』(大和書房)の「ヒンズー教神話」の項目に書いてありました。『マチヤ・プラーナ』という経典からで、次のようなくだりです。「世界が創造されるべき時がくると、この大洋に浮かび眠っているヴィシュヌの臍から、蓮が芽を出し、やがて黄金色に光り輝く一輪の花を咲かせる・・・この蓮の花が大地となり、また万物を生み出す大地女神の女陰ともなって、ヴィシュヌの内にある世界が、現実のものとして創造されるのである」(p35)。