パスカル・キニャールの二冊

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パスカルキニャール高橋啓訳『めぐり逢う朝』(早川書房 1992年)
パスカルキニャール吉田加南子訳『音楽のレッスン』(河出書房新社 1993年)


 キニャールの作品は、ずいぶん昔に、端正で詩的な文章が目にとまって、『辺境の館』というのを読んだことがあるくらいです。この二冊も以前に買ってそのままにしていたものですが、来年、奈良日仏協会のシネクラブで、アラン・コルノー監督の映画『めぐり逢う朝』が取り上げられるというので読んでみました。 『めぐり逢う朝』は、2ページから長くて10ページの短章27章で構成されている小説。『音楽のレッスン』は「マラン・マレの生涯の一挿話」、「マケドニアの若者が船をおりて」、「成連の最後の音楽のレッスン」という3つの作品からなり、最初の二つはアフォリズムと小説が合体したような散文作品、最後の作品は、きわめて短い断章からなる寓話風小説です。

 もともと、『音楽のレッスン』を読んだコルノー監督が、音楽家の映画を作りたいとキニャールを訪問し、シナリオは無理だが小説ならと応じたのが、『めぐり逢う朝』ということです。そんなわけで、『音楽のレッスン』の「マラン・マレの生涯の一挿話」は『めぐり逢う朝』と同じ話をマレを中心として描いた作品ですし、ともに声変りという言葉がキーワードになっています。「成連の最後の音楽のレッスン」も楽器はヴィオールではなく琵琶ですが、師が弟子の楽器を叩き壊す場面など、『めぐり逢う朝』と共通したところがあります。


 『めぐり逢う朝』は、人間のあらゆる声音をまねるまでヴィオールを極めたが、宮廷からの誘いを断り、桑の木の小屋でひたすら研鑽する師サント=コロンブと、後に宮廷音楽家となって大成する弟子マラン・マレの相克を描いた芸術家小説です。コロンブの妻の亡霊が登場して会話が繰り広げられたり、ボージャンという同時代画家の静謐な絵とのコラボレーションもあります。「風であることに苦しみがないとでもお思いになって? ただ、この風はときおりあの世に音楽のかけらを運びます。ときには光があなたの目にわたくしたちの現世(うつしよ)の姿を運ぶこともあるのです」(p104)という亡霊のセリフに見られるようにいささか哲学的な難解な小説。

 これまで読んだ範囲で言えば、キニャールの小説は、断片が素材のまま放り出されているという印象を受けます。一般的な小説であれば、一人称であれ三人称であれ物語を単一の視点から語り、筋道立って同一のレベル、統一の取れた形で世界が描かれますが、『めぐり逢う朝』は、史実の断片と架空の物語という次元の異なるものが入り混じり、著者のある観念に基づいた形象が散りばめられているので、観念小説的、寓話的、神話的な語り口が感じられます。ネタバレになりますが、サント=コロンブの長女マドレーヌがマレに恋し、あげくに棄てられて、マレからプレゼントされた靴の紐で首を吊るという悲劇が織り込まれているのに、淡々と描かれ決してドラマティックにはなりません。

 現実味が薄いのは、400年ほど前の人物のことを書いているからでしょうか。普通の小説であれば、本当らしさを作りあげるためにいろいろ枝葉末節を付加して肉付けするものでしょうが、物語の観念的な主題に触れる以外のことはほとんど書かず、荒削りな印象があります。また、端正で詩的な文体のなかに露骨な性的な言辞が混じる違和感が不思議な感覚をもたらしています。これはいかにもフランスらしい。

 サント=コロンブがマレを連れて、ボージャンのアトリエを訪ねるくだりの雰囲気は、画家の筆使いに演奏の極意を求めたり、役者の朗誦の声に音楽の発声法を学んだり、雪に向かって小便をするときの音で装飾音を会得したりと、求道的な印象があります。キニャールには近代のヨーロッパに欠けているものを求めているようなところがあって、それが古代ギリシア古代ローマ、東洋という題材を選ぶ一つの理由のような気がします。


 アフォリズムが満載の『音楽のレッスン』を読んで、アフォリズムというものについて考えました。アフォリズムがよくないのは、私の場合、分かったような気になって、その実、雰囲気に流されて、何も分かっていないことがよくあることです。とくに詩的な美辞麗句には気をつけなくてはいけないと自戒するところです。キニャールの文章は、詩的で繊細な美が感じられる一方分かりにくい文章で、悪く言えば、文学青年の習作のような印象を受けることがあります。これはフランス文学特有の気取り、プレシオジテと言うのか、エスプリと呼べばいいのか、ではないでしょうか。

 こう書いても分かりにくいと思いますので、具体例を下記に列挙してみます。いずれも『音楽のレッスン』の「マラン・マレの生涯の一挿話」より。

声変りを飼いならし、それによって、声変りから生ずる変化を飼いならすこと。それによって、退去を手なずけ飼いならすこと。徴をつけられてしまった退去/p15

アウグスティヌスは言っている。「神は時間の中で響く声では語らない」と/p64

音楽は、すべてうつろな語りだ。そしてあらゆる語りは時間の中にあり、語りそれ自体が、飼いならすということに要約される/p67

ヒトの時間の内にあって、音楽とは戻ってきた時間の亡霊だ/p71

知らないものを待つことだ。しかしこのように待つとき、わたしたちは知っているのだ、知らないものとは、知られてはいないが、しかしそれまでまったく知らなかった未知のものであるはずはない、と。私たちが知らないそのものは甘美で、去ってはまた戻ってくる―そして戻ってくるため、それだけのために去るのだと/p74

 こう書いていて思い出しましたが、『辺境の館』にも次のようなアフォリズム的な一節がありました。

花々の影が欄干にさしていますが、それはけっして花そのものではありません。花々は階段の下、花瓶におさまっております。男は、新大陸に向かうカラベル船のように、自分の欲望のなかに消えたのです。夢見る者が夢のなかに消えてしまうように/p89

 『音楽のレッスン』の3つの作品の中では、「成連の最後の音楽のレッスン」がいちばんおもしろく読めました。師匠の無理難題に必死でついて行く弟子の姿が、東洋的な修業の過程とともに描きだされています。ユルスナールの「老絵師の行方」(『東方綺譚』所収)をどことなく思い出しました。