中平解の回顧随筆二冊

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中平解『霧の彼方の人々』(清水弘文堂 1991年)
中平解『冬の没(い)りつ日』(清水弘文堂 1993年)


 前回読んだ『フランス語學新考』の戦前の文章と比べると書き方がずいぶんやさしくなっています。中平解が晩年に人生を振り返って、主に人との交流の思い出を中心に綴った随筆です。はじめに『霧の彼方の人々』を書き、そこで書ききれなかったことを続編として、『冬の没りつ日』を出したということです。戦前の高校、大学生活が濃密な人間関係のなかで営まれていたのか、それとも著者が交際家で多くの人と交わっていたのか、書き進むにつれて、あの人もこの人もと増えて行ったようです。

 80歳を越えてからの回想録なので、先輩たちが亡くなって行くのと、途中に大きな戦争があったので、次々といろんな人が登場しては死んでいくといった荒涼とした雰囲気が感じられます。記憶のおぼつかなさを嘆き、自問自答しながら、一つ一つ書き起こしていくさまは、タイトルどおり「霧の彼方の人々」を呼び起こそうとするかのようです。それと、昔を振り返って、一高時代の怠慢を反省する言葉や、あの時ああすればよかったという慚愧の念、知人の消息を知らないままあの世に行くことの寂しさをあちこちで洩らしているのが印象的でした。

 高名な文学者、学者とともに、知らなかった多くの学者らの名前が出てきますが、その時代の雰囲気が感じられて貴重です。例えば、大正十年五月ごろ、鴎外が帝室の諡について講演をしたのを聞きに行って、和服姿の鴎外が黒板に難しい漢字を書き連ねていたこと(『霧の彼方の人々』p55)、菊池寛が人前で講演するのが2回目とやらで、「話を始めて五分もするかしないかに、巧くしゃべれなくなって、しきりにハンカチで額の汗をぬぐっていたが、そのうちに、どうしても話が続けられないから、今日はこれで止めさせてくれ、と言って、すごすごと帰って行った」という顛末や(同p60)、夭折した小川泰一という仏文学者の通夜で、白水社社主の草野貞之(レニエの『ヴェニス物語』を訳している人)がお経を読んだが、それは彼がお寺の息子で、東京帝大で印度哲学を専攻していてお経を読むことなど朝飯前だったからという話(同p94)、また『コンサイス仏和辞典』の校正刷に赤字を入れる仕事をしていたとき、当時暁星の先生をしていた田辺貞之助を学校に訪ねて協力を引き受けてもらったこと(『冬の没りつ日』p41)など。

 一高の誰それ、三高の何某というふうに、人の話をするときにつねに学歴が前振りで出てくるのは、戦前の文化だとは言えあまりいい感じはしませんでしたが、その一方で、濃密な人間関係が羨ましくもありました。明治大学予科でフランス語を教えていたときの生徒たちへの思いは、昭和17年から19年にかけてだったこともあり、勤労奉仕にみんな狩り出されたり、空襲での犠牲者もいて、格別なものがあったようで、その後も長くみんなとの付き合いが続いたようです。

 意外な一面としては、東京帝国大学時代に、あまり詳しい説明がなかったのでどういう組織かよく分かりませんでしたが、新人会という社会運動の学生組織に入って活動していることで、共産党系の人物と交わったり、メーデーに出たりしていること、それから一時、NHKに勤めていた時代があり、名古屋中央放送局で、当時はラジオのはずですが、文学講座や語学講座、さらには大学受験講座を製作したり、文化講演会を催して講師を招いたりしていたこと。

 『冬の没りつ日』のなかの一篇「夢の中で別れに来た人―上林暁のこと」は、ほかの随想とやや趣が異なり、オカルト的な話を記したもので、上林暁が亡くなったちょうど同じ時刻に、中平家で玄関から誰かが入ってくる音がしたので、奥さんが見に行くと、戸が開いていたが誰もいなかったという一件をはじめ、知人の死と中平家での怪異が符合するといった話が、4話ほど紹介されていました。