中平解『フランス語學新考』

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中平解『フランス語學新考 改訂版』(三省堂 1943年)


 著者が1935年に最初に書いた本の改訂版。この後、もう一度改訂しているようです。初歩の文法では些末なこととしてあまり説明されないが、実際の読書ではひっかかるような27の表現を取りあげて、本国の文法書や辞書を紹介しながら、丁寧に解説しています。フランス書読書をめざそうとする人にとってはありがたい文献と言えましょう。

 この本でも、『フランス文学にあらわれた動植物の研究』と同様、引用例文の数が多すぎるのが、わたしにとっては不満なところ。事実を積み上げようとする気概には感服しますが、読むほうはたいへんです。同じ作家の同一の作品で複数回引用されることが多いですが、少なくとも同じ作家の例文は一つに留めおくべきでしょう。というわけで、例文のかなりの部分は飛ばし読みし、補遺(たぶんこれが改訂の部分か)は読まずに終わりました。

 この本の優れたところは、あくまでも読書の過程のなかで遭遇した文法的事柄について書いていることで、本読みのために書かれているということです。文法のための文法ではないところがよい。恥ずかしながら、これまでまともに文法を勉強してこなかったので、知らなかったことが数多くあり、勉強になりました。著者が勢い余って、本国の文法家に対しても異論を述べているところはすばらしい心意気ですが、結局異論が併記されることで、曖昧になって混乱する部分がないとは言えません。

 専門的になりますし、正しく理解できているかどうか、心もとないですが、いくつか要約翻訳、独断的改変を交えて、ご紹介しておきます。  
①Goûtez-moi ce vin(この葡萄酒の味を見て下さいよ)という表現があるが、このmoiは話者がそのことに何らかの意味で関心を持っていることを示すもので、一種の虚辞である。しかし虚辞というのは、論理的、文法的には蛇足であっても、それあるがために、文全体に感情的要素を加味する働きを持っていることを見逃してはいけない(p1~3)。虚辞のneについては、話者の思考のなかに疑念がある場合には、今でもneを用いるのが正確であり、少なくともエレガントである(p66)。

②現在形を使って未来のことを表わす表現法があるが、これはフランス語に限ったことではなく、英語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語オランダ語などにも見られ、言語の一般的傾向である。国語のなかには、未来形を持っていないものすらある(p29)。元来、未来のことを言う場合には、そこに不確かな感じが伴う訳であるが、未来形を用いる代わりに現在形を用いれば、確かな感じを与え、表現に力を生ずるのである(p35)。条件を示すsiの後では、たとえ未来のことであっても現在形を用いるが、未来の観念をはっきり言い表わしたい場合には、devoir+inf.、parvenir à+inf.、pouvoir+inf.を用いたり、dans deux heures(2時間後)というように時間を書く(p41)。

③名詞節の従属節が文の初めに来ている場合には、主節の動詞の性質にかかわらず、一般的に、従属節の動詞は接続法になる(p63)。これは話者の思考の流れが、普通の論理的な進行を取らずに、その部分を初めに言い出すことによって、相手の注意を惹こうとする感情的な気持を反映しているからである。これとの関連で、倒置形が文全体に情動的な性質を与えるということがある。つまり、転換の結果として、文はその論理的な性質を失って主観的な雰囲気(atmosphère de subjectivité)に包まれるのである(p64)。

④言葉の歴史において、場所を示す動詞・前置詞と、動きを示す動詞・前置詞は、しばしば交換される。一般に、場所的意味は動き的意味の方へ広がって行く(p100)。例えば、aux environs de(~の付近で)は、空間についての表現と言われるが、実際には、いろいろな書物で、(~の頃に)という意味で時間の場合にも用いられている(p93)。もともと空間の概念を示す言葉であるiciまたはlàが、時間の場合に適用されるのも、やはりそうした例の一つである(p97)。

⑤et Florent de se mettre aussitôt à la recherche(でフローランはただちに探し始めた)という例のように、物語的不定法は、普通deを介して主語と結びついて、過去の動作を表わすが、多くの場合において、物語的不定法のある節は、接続詞etで始っていて、Et+主語+de+不定法現在の形を取る。主語がない場合もある(p46、51)。

⑥Ce queは、近代の口語において、感嘆副詞としてcombienやcommeの代りに用いられる。例文としては、Depuis qu’il y vient, ce qu’elle est gâtée!(彼がやってきて以来、どれだけ彼女が甘やかされたか)(p53)。

⑦理由を示すのに単に形容詞や過去分詞を用いただけで足りる場合がある。例文としては、Décidé à me débarrasser du poids de la vie(人生のやっかいごとを払いのけようと決めて),で、Comme j’étais décidé à me débarrasser du poids de la vie,の意味と同じであるが、これは、Décidé comme j’étais à me débarrasser du poids de la vie,としたほうが理由が強調されることになる(p117)。この場合、commeの後では、形容詞または過去分詞を代表する虚辞のleが用いられること(comme je l’étais)もあるし、用いられないこともある(p119)。

⑧17世紀にも、ne・・・point queやne・・・pas queの用いられている例があるが、これらは今のne・・・que(~しかない)の意味であった。18世紀末以降のne・・・pas que(~だけではない)は、近代的な表現であると言える(p135)。ne・・・pas queの特殊な表現として、ne faire pas que+inf.というのがあり、これはne faire que+inf.の否定形である。例文として、Elle ne fait que tousser.は「彼女は咳ばかりしている」であるが、Il ne fait pas que lire.となると「彼は読書ばかりしている訳ではない」となる(p146)。それと同様に、il n’y a pas que・・・quiの形式は、il n’y a que・・・quiの否定であるから、Il n’y a que lui qui le sacheが「それを知っているのは彼のみである」という意味であるのに対して、Il n’y a pas que lui qui le sacheは、「それを知っているのは彼のみではない」となる(p149)。

⑨単純過去は徐々に半過去にその領域を侵されるようになった。それと同じく、単純過去の複合形である前過去も、半過去の複合形である大過去にその領域を侵されるに至ったのである(p200)。

 まだまだありますが、これくらいで。