:REMY DE GOURMONT『Une Nuit au Luxembourg』(レミ・ド・グールモン『リュクサンブール公園の一夜』)


REMY DE GOURMONT『Une Nuit au Luxembourg』(MERCURE DE FRANCE 1923年)


 Luxembourgという言葉を知ったのは、学生の頃、ネルヴァルの詩「Une Allée du Luxembourg」からでした。初めてパリに行った時も真っ先にリュクサンブール公園を訪れたことを思い出します。

 読み終わってから、大昔(大正7年)に翻訳が出ていたことを知りました。『小説神人問答』という題名で、石川戯庵という人が訳しています。しかも国会図書館のアーカイヴでネットで読めるではありませんか。今回は時間もないので、無視してこれを書くことにします。

 「神人問答」と訳しているぐらいですから、ほとんど全編が神と目される師と私との対話で成り立っています。が全体の体裁は小説となっていて、「北大西洋ヘラルド」紙の特派員のローズが自宅で不審死を遂げ、新聞が謎の女性Bの存在を指摘ついでその女性のアリバイが確認されたことなどを書きたてるなか、友人で遺産相続人の作者が、遺された手稿を公開するという設定で、物語が始まります。

 ローズ氏が散歩中、サン・シュルピス教会から謎の光が射していたので中に入ってみると、自分の姿とそっくりの男がいて包み込むようなオーラを発していた。その男に導かれるままにリュクサンブール公園に入ると、冬なのに夏の朝のように花々が咲き鳥が囀っていた。そこで3人の若い女性と出会う。男は神の化身のようで、神の言葉を伝えようともくろんでいるのか、ローズにあなたを選んだと告げ、キリスト教ギリシア哲学、宇宙論など様々な話を語り聞かせる。その間3人の女性たちとのやり取りのなかで、エリーズという女性とたちまち相思相愛の関係になる。師は彼女らもまた女神であると明かす。ローズ氏はエリーズとともに生きることを伝え、師が去った後、エリーズを自分の家に連れて帰って愛し合うところで手稿は終わる。

 付記として作者が、ローズ氏の死後の経緯を伝えています。ローズ氏は手稿を書き終わったところで眠るように死んでおり、乱れたベッドのまわりには、古代の女性が身につけるような服やサンダル、宝飾品が残され、化粧室には金髪の毛の絡まった櫛がありジャスミンの香が立ち込めていた。検死官はセックスと頭の使いすぎによる自然死と判断。管理人によると、ローズ氏は女性とともに木曜日の夜部屋に戻ってから、日曜日に死体となって発見されるまで姿を現さなかったとのこと。部屋には空のシャンパンが6本転がっていた。もちろん女性の姿は杳として知れず。

 導入部の雰囲気や師の語る神秘主義的な言葉は学生の頃なら熱を挙げていたと思われますが、この歳になるとさすがに、観念的抽象的な議論が延々と続くのに食傷してしまいました。師というのが神の化身であるのは間違いありませんが、はじめは「母は処女のまま私を産んだ・・・私は水の上を歩いた」(p29)と言っているので、キリストかと思っていたら、「私が主要な観念を吹き込んだイエス」(p64)とあるのでその上の父なる神のようにも思え、しかしその後、「父が住んでいた木星・・・私はしばらく火星にいた」(p73)と言っているので軍神マルスかと思えば、「私の母をギリシア人はレートーと呼んでいて、私はアポロンという名前で知られていた」(p79)と言っていたり、訳が分かりません。おそらくすべてを含んだ広い概念としての「神」だと思われます。

 キリスト教への暴言は至る所に出てきます。ローズ氏が教会の聖水盤に手を差し伸べようとすると「無駄だ」(p33)と言い、福音書を「酔っ払いの予言者によって心を乱されたユダヤ人が夢想を記したもの」(p63)と言ったり、「イエスは12人の使徒を取るという間違いを犯した・・・それで12人が思い思いに馬鹿げた教えにしてしまったのだ」(p64)とか、「私は教会を呪い軽蔑している」(p65)、「真ん中に中心があるという考え方は馬鹿げている・・・そのように神も一つではない。神があるとすれば複雑な形でしか存在しない」(p98)とか、「地獄はあなた方の心の中に入り込んで、喜びを奪っているのだ」(p103)など。またユダヤ人を勤勉の象徴として嫌悪する表現もあちこちに見られました。「余暇は人間が獲得した最大のものだ・・・ところが何もしないことを恥として労働を説く馬鹿が現れた。それは女性をだめにし、心の中にユダヤ人の道徳を植えつけはしまいか」(p77)。

 この物語の構造自体が、冬の暗い教会から抜け出て、夏の朝のような花咲く公園へと辿ることを見ても、禁欲的なキリスト教を否定し、ギリシア哲学や異教への憧れを謳っていると言えます。陰気なもの、地獄の想像世界や勤勉を排し、明るさや花々、自然を尊び、人間の欲望を肯定し女性との性愛を奨励しています。エピキュロスやルクレティウスを絶賛してもいます。最後の方で、「私はエピキュロスの唯物論、聖パウロキリスト教スピノザの汎神論が好き」(p166)と師が語っていて、キリスト教が入っているのが少し解せませんが、おおらかでゆるやかな考え方であるに違いありません。


 いたるところに箴言がちりばめられた作品で、いくつか警句的な言葉が印象に残りました(訳がいい加減なので注意)。
「大事なのは動きが続くことだ。人間も神も宇宙においても、永遠の動きが偶然の一瞬を生み出しているのだ」(p95)
ユダヤの美女のところへやってきた一羽の鳩はレダのところへやってきた白鳥とどう違うのか。何世紀も形を変えて語り継がれてきたものは同じものだ。というのは愛というものが同じだから。私がそう言うのを聞けば司祭たちは冒涜だと言うだろう。が私は白鳥であり鳩だったのだ。あなた方の知識は見て違うものに別々の名を付けているが、ある日同じものだと気づくだろう」(p135)
「人間にとって幸せなことは、持つことではなくて欲することだ。」(p162)
「自由は見せようとするとなくなるものだ。自由の行進をする時人は自由ではない」(p165)


 物語を読み終えたときの余韻はなかなかよい感じがしました。