:Jean Lorrain『Le vice errant』(ジャン・ロラン『さまよえる悪徳』)


Jean Lorrain『Le vice errant』(J.-C.Lattès 1980年)

 パソコンが壊れていちばん被害があったのが、この本の記録。いつもフランス語の本を読むときには、内容を簡単に日本語に直して書き留めるようにしています。でないと、なかなか思い出せないからです。今回、その記録がほとんど全部消えてしまいました。それで薄れた記憶をたどりながら、また梗概を作り直すという作業を強いられました。このブログのまとめはいつもいい加減ですが、今回はさらにそれがひどくなっていると思います。ご容赦を。

 生田耕作旧蔵書。7年前東京古書会館の洋書市で生田氏の蔵書を大量に購入したときの一冊。蔵書票が貼ってありました。「洛北遅日草舎」と読むらしい。

 「LE VICE ERRANT」「MASCHERE(仮面)」「SALADE RUSSE(ロシア風サラダ)」「LES NORONSOFF(ノロンソフ家)」の4章からなり、それぞれの章のなかに短編が収められています。短編集かと思っていたら、ほとんどが南仏の社交界を題材にした物語でテーマも似通っていて、また次の短編につながっていく仕掛けがあります。最初の一篇を除いて、ジャン・ロラン自身がラバステンという医者から聞いた話として語られています。最後の「LES NORONSOFF」は長編として独立していました。

 ジャン・ロランの作品にはいつも裏切られることがありません。とくに「LES NORONSOFF」は、ジャン・ロランの長編では最高作とも思えます。前回読んだジャン・リシュパン『CONTES DE LA DÉCADENCE ROMAINE(羅馬頽唐譚)』と同じようにローマの皇帝を彷彿とさせる狂気と粗暴と悪徳に満ちた物語です。リシュパンのほうが先に書いているので、その影響があるのではないでしょうか。というかこの時代がそういう風潮にあったのかもしれません。リシュパンの凝縮した文体と比べると、やや冗長な印象を受けましたが、同じことを少し表現を変えつつ何度も繰り返すところに原因があるように思います。この冗長さは決して悪いものではなく、それに浸っている間は心地よさが続くという意味で、後期ロマン派音楽のブルックナーマーラーに通じるところがあるような気がします。

 集中最高の部分は、やはり「LES NORONSOFF」の中のいくつかの場面。「LA FAVORITE(お気に入り)」で、瀕死のノロンソフが宴の最後に幽鬼のような姿で挨拶に出てくるところは圧巻。ほかに「LE SOUPER DE TRIMALCION(トリマルキオの饗宴)」の3人の港湾労働者の入れ墨をした裸のオブジェを見せる宴会の場面、「LES FETES D’ADONIS(アドニスの祝祭)」で、下層民300人を仮装させたアドニスの祭りの描写などに、ジャン・ロランらしい猥雑さに満ちたテイストがありました。 

 主人公のノロンソフが次から次へ何かに熱中するところが物語の展開の一つの要素となっています。伯爵夫人、マルセイユの船乗り、賭博場で知り合ったマリスカ、イタリアの役者、料理人の歌うたい、それにお気に入りの鸚鵡や猿。それぞれがエピソードを作りながら、一つの大きな物語を作っています。

 以前読んだ、同じく南仏を舞台にしている『LE CRIME DES RICHES(富豪たちの犯罪)』に、「LES NORONSOFF」の後日談となる「Une agonie(苦しみ)」という一篇がありました。ノロンソフが死ぬ間際に親戚と称する連中が集まって何とか遺書にサインをさせようとてんやわんやの立ち回りをする話。


 以下、各章ごとに簡単に紹介しますと、
「LE VICE ERRANT」は以下の一篇のみ。
〇Propos d’opium(阿片室での話)
ある婦人が年寄りの愛人と夜を過ごしていて、老人がベッドの上で脳溢血で亡くなった。夫人には娘、老人には妻も娘もあり、スキャンダルになってはと調停の名人を呼び寄せる。結局通りのベンチに死体を運ぶことになるが、硬直し始めた死体に服を着せるのに難渋し、蝋燭で照らしながら死体を担いで4階から階段を下りる描写がグロテスク。禿げ頭が象牙の玉のように光っていたというのは笑っていいのか。


「MASCHERE」には4つの短編が収められている。
〇Masque de Londres et d’ailleurs
 ロンドンで起こった連続殺人。いつも同じ夕刻に同じ地区で一人で歩いている男が狙われる。警備を強化し犯行現場を急襲すると、被害者はクロロフォルムを内に流し込まれた仮面をつけられていた。犯人は仮面を取る間もなく逃げたのだ。これは霧が深く他人に無関心なロンドンならではの犯罪だ。『Histoires de masques(仮面物語)』の続編ともいえる。

Madame Agache(アガシュ夫人)
 間奏曲的な短編。レストランで見かけた二人の婦人の噂話をする。

〇La Maison du bonheur(幸福の家)
 ある別荘の前で話をする。詩人でパリの図書館に勤める男が長年ある伯爵夫人に恋心を抱き、彼女に詩を捧げ続ける。年老いて失明しまうが、ある晩、衣擦れと香水の匂いとともに女性が訪れる。伯爵夫人だった。彼女は夫に死に別れ、病気で醜い顔になっていた。が二人は今はこの別荘で幸せに暮らしている。

Les Chimères(幻想)
 次に通りかかった別荘の話。好色な金持ちの老人が愛人のために建てたものだが、完成する前に別れてしまった。その後別の伯爵夫人を見初め、その夫を株で破産させておいて夫人を金ずくで愛人とする。夫人は病気になり、死に際に老人をベッドに呼び渾身の力で絞殺する。


「SALADE RUSSE」には以下の2篇。
Chauve-souris(蝙蝠)
 深夜、海岸べりの散歩道を猛スピードで歩いていく二人の男。片方は極度の女嫌いになったロシアの伯爵で、女性を見ただけで発作を起こすようになり、夜しか出歩けなくなった。もうひとりは秘書。高給だが、伯爵に24時間付きっきりで個人の生活がないうえに、伯爵の沈黙が耐え難いという理由で、みんな長続きしない。

La baronne Nydorf(ニドルフ男爵夫人)
 バーで、顔見知りの凋落した男爵夫人から金をせびられ断ると、事件のネタを教えてあげたのにと言われる。ロシアの男爵が親友から殺されそうになった事件で、大金持ちだのに金を貸そうとしないというのがその理由だった。犯人は1週間後に自殺した。が、犯人の愛人が男爵の読心術師と通じていたなど、まだ多くの謎に包まれていた。


◎LES NORONSOFFは長編なので少々長くなります。
 ジプシー女を乱暴したせいで、その恋人から末代まで祟られる淫蕩の呪いをかけられたノロンソフの一族。その末裔の一人が結婚しニースの別荘を買った。がその妻は夫の兄を一目見ただけで淫乱になり、兄弟は困り果てて妻を殺す。その後弟は子なくして死に、兄の子ウラジーミル・ノロンソフが母とともにロシアから追われて巨額の富とともに別荘に逃げてきた。ウラジーミルは34歳だが放蕩のせいで50歳にも見える。母親はボルジア家の血を引くイタリア貴族。巨万の富を湯水のように注ぎこんで、連日のように饗宴を繰り広げる。ポーランドの没落貴族ショボレスカ伯爵夫人がノロンソフに取り入り、それが母親には気に入らない。ウラジーミルはますます体を害し幽鬼のような姿となっていった。

伯爵夫人が偶然知り合った船乗り二人組が別荘にやってきて、その陽気さと異国への旅の話を聞き続けたせいで、ウラジーミルは徐々に健康を取り戻した。母親はその船乗りたちと一緒に息子を船旅へ誘い伯爵夫人から息子を遠ざけようと画策する。が伯爵夫人はヨットの持ち主と通じていてその策謀を見破られ、母親は修道院に蟄居する羽目に。ウラジーミルはやりたい放題となり激しい饗宴を繰り返すが、伯爵夫人は次第に寄りつかなくなり、ヨットの持ち主やイギリスの詩人と一緒になって、ホガースの版画を題材にした寸劇で町の評判をとったりする。ウラジーミルは対抗意識を掻き立てられ、伯爵夫人の美しい息子をアドニスに仕立て、町中が参加するお祭りを計画する。前日の総練習が成功裡に終わり、いよいよ本番となったとき、アドニス役が突如消える。伯爵夫人と息子はヨットの持ち主と船旅に出てしまったのだ。そして伯爵夫人とヨットの持ち主は結婚する。ウラジーミルは逆上し、最後は狂乱のうちに、港の魚屋のおばちゃんから魚ではたかれたことが原因で死んでしまう。