博学系評論二冊

  
篠田一士『三田の詩人たち』(講談社文芸文庫 2006年)
松浦寿輝『黄昏客思(こうこんかくし)』(文藝春秋 2015年)


 この二冊も、たまたま続けて読んだというだけで、そんなに共通点はありません。強いて言えば、二人とも大学の文学の先生で、文学芸術全般にわたって造詣が深く、まわりから博学の士と見られているというところでしょうか。

 『三田の詩人たち』は、慶應義塾大学と縁の深い久保田万太郎ら6人の作家、詩人について語ったもので、好感を持てたところは、どこかでの講演録かと思われるぐらいの語りかけるようなやさしい文章ということです。文芸作品をたくさん読んでいて、敬服しますが、作家や詩人に対する評価では、私の感性とはどうしても相いれないところが結構ありました。しかも理由も言わずに一方的に決めつけ切り捨てるような感じで評価を書いているのが、不満。

 読んでいていくつか印象に残ったことを書いておきます。
①ひとつは、久保田万太郎の俳句が私好みなのにあらためて気づかされたこと。20の句が紹介されていたが、そのなかで下記が傑出していた。

短夜のあけゆく水の匂かな

波の音はこぶ風あり秋まつり

だれかどこかで何かさゝやけり春隣

また道の芒のなかとなりしかな

雪の傘たゝむ音してまた一人

春の灯のまたゝき合ひてつきしかな

 うまく表現できませんが、言外の情景までが浮かんでくるような喚起力の強い言葉が並んでいます。これは単なる写生ではありません。

②文壇の動きに関して、現代では、ジャーナリズムの商業主義が高度に発達しているが、戦前の文壇は作家一人一人の交友関係を軸に形成されていたという指摘と、それに関連して、大正文壇においては、小説家だけでなく、詩人や歌人も、同じ一つの文学的世界のなかでお互いに交流していたが、現代では文壇と詩壇は交流がない、これは、西脇順三郎モダニズム詩の登場が契機となったという指摘。文壇側は、訳の分からない詩は文学でないとそっぽを向き、詩壇側は、自分たちの高度な作品の価値は、小説家のような俗な連中には分かるはずがないと馬鹿にしたという。

③自作年譜で書いているが、自分の文学的な成長に大きく影響した人物として、旧制松江高校時代に森亮先生と出会ったことを挙げ、また学者・評論家になった後では、川村二郎との深い交友を特記していたこと。

④作家、詩人の評価で、私の感性と相いれないのは下記のような言い方。
「『邪宗門』とか『思ひ出』なんかは読むに耐えませんね」(p47)、「『茂吉と朔太郎』という一文を書いて、なんとか朔太郎を持ち上げようとしたことがありましたが、いかんせん駄目でした」(p48)、「上田敏・・・自分で自分の言葉に酔ってしまい、そこに深入りしすぎてしまったというようなことなのか―とにかく、訳詩としても創作詩としても何かよく分からない、あまり上等なものとは言えないんですね」(p126)、「『珊瑚集』という、日本の近代訳詩集の中では、五指は無理にしても」(p170)、「レニエの訳詩は必ずしも荷風の『珊瑚集』の中ではいいものとは思えませんから、忘れられても致し方ない」(p175)。

⑤さらに腹が立つのは、荷風がフランスの小説をたくさん読んでいることに触れて、「荷風は批評家じゃないから、あくまで自分の小説にどれだけ参考になるか、使えるかという、プロフェッショナルな下心で読んでいるんだろうと思います」(p195)と功利的な邪推を働かしているところ。楽しみのために読む人もいることを忘れている。


 『黄昏客思』は、大学退職後に自由気ままに感想、回想を綴ったエッセイ。この人も、『あやめ 鰈 ひかがみ』、『もののたはむれ』の幻妖な世界を創出したり、抒情的な詩を書く人で、崇敬していたのに、今回、この本で、人間性に疑問が生じてしまいました。文章が好きになるとは、結局、最後は書き手の人柄に魅せられるかどうかになるのでしょうか。

 いくつかの論点の抽出や、感想は下記のとおり。  
①老いていくなかで、自分と縁のあった人々や、自分が過去に経験した営みも、有と無のあわいに揺れる影のように見え始め、「ひょっとすると居なかった、なかったのかもしれない」と人は呟くが、その呟きの中にはたぶん、老いにのみ固有の幸福があるのだろうと書いていた。これは、前回読んだ森於菟の「耄碌寸前」の境地と同じだし、また上林暁が書いていた記憶楽観性(思い出はつねに美しい)にも通じる現象ではないか。

②詩の言葉に対する繊細な感性には同意できる部分が多い。例えば、吉岡実の詩「静物」について、「増してくる」「沿うてゆく」から、「最も深いところへ至り」「よこたわる」へ、さらに「重みを加える」「かたむく」まで、多様な運動が次々に組織されてゆく、と鑑賞しているところ。バシュラールの「引き出し」「小箱」「巣」「貝殻」「片隅」「ミニアチュール」といった「内部」のテーマに関する文章を、美しい詩想のつづれ織りと表現しているところ。

③現代詩は、形式の束縛から解き放たれたが故に、叙述の冗長さに汚染されやすくなったと指摘したり、言葉を増殖させ物事を限定することで個物の特異性を際立たせることが小説の方法とすれば、詩の領分でその方法を取り入れると、詩自体は痩せていくという指摘には共感した。詩とは、芒洋としたものであり、詩には訳の分からなさが必要なのだ。

④科学の発展と人間の関係から、人間の行く末を論じた部分は、私の問題意識とも重なるものがある。世界を改変しようという人間の姿勢は、地面に一本の線を引くことから始まったが、科学の発展は、いまや自動運動のようなありさまになっていて、ついに原子力発電やゲノム解読までに至った。核廃棄物をとめどなく産出させ続けるのは、もてなしてくれるあるじの家に、刻々増大する汚物を無理やり持ち込むのと同じことではないのか。しかし科学的努力を止めようとしてまた努力するというのも明らかに論理的撞着であり、観念的曲芸であると指摘している。ではどうすればいいのか。

⑤残念なことに、文章の端々に、斜に構えたような態度が窺えて鼻持ちならぬ。自分の立ち位置を皮肉っぽく確認するやり方は嫌味。例えば、「ただ平凡に、わが国にも優れた民主的リーダー出でよとだけ言っておけばいいのかもしれぬ・・・毒にも薬にもならない新聞社説ふうのそんな物言い」(p41)、「わたしはせいぜい『町人』にすぎず、フランス文学の勉強をしようがパリに留学しようが、『市民』に成り上がりたいと思ったことなど未だかつて一度もない」(p70)、「『連帯を求めて孤立を恐れず』などという骨董品のような言葉がふと頭をよぎり、思わず苦笑してしまう」(p141)といったような文章。

⑥誰か具体的に不愉快に思っている人物が居るのか、次のような言葉は、読んでいて気持ちの良いものではないし、痛々しさも感じてしまう。。「世界の本質が『売り』と『買い』にしかないという痛切な真理を子供のときにつくづく感得するといった哀れな体験などとはまったく無縁の、育ちの良いインテリふぜいが、一葉について気の利いているふうのさかしらを書いているのを読んだりすると、おのずと唇の端に憫笑が浮かばないわけにはいかない」(p68)、「死の接近とともに自分自身にますます執着してやまない不幸な老人も少なくないが、その醜状からは眼を背けていたい」(p215)。

⑦「いかに高度な専門知で武装していようと羞恥の倫理を持っていない者は専門家の名に値しない。専門家の誇りとは、自らが知的に優位であることについてではなく、知的優位が容易に権力へと堕しうることを絶えず自覚し、羞恥のモラルを備えていることの矜持でなければならない」というようなすばらしい言葉もあるが、そもそも知的優位を感じること自体がおかしい気もする。