:柳澤健の三冊

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柳澤健歓喜と微笑の旅』(中央美術社 1923年)
柳澤健『巴里を語る』(中央公論社 1929年)
柳澤健『回想の巴里』(酣燈社 1947年)


 柳澤健も戦前パリに滞在していた人で、松尾邦之助の本に『修善寺物語』パリ公演の協力者として出ていました。『回想の巴里』は10年ほど前に一度読んだことがあり今回2回目。大阪朝日新聞社の記者時代1920年から1年余パリに滞在し、日本に戻ってから外務省に転職し、1923年にフランス大使館の書記官となってふたたびパリに行き、その後スウェーデンポルトガル大使館に勤めたりしながら、合計約20年間フランスを中心にヨーロッパに滞在したと書いています。

 今までにない官僚畑の人ですが、久しぶりに文人の香りがする文章を読んだ気がします。石黒敬七や永瀬義郎は面白い文章でしたが文筆の人ではないし、松尾邦之助や渡辺紳一郎もやはりジャーナリスト的な文章でした。柳澤には芸術文学を愛する素朴な人柄が感じられ、文芸、演劇、美術、音楽、舞踊にわたる幅広い興味を持っていることが伺えます。


 『歓喜と微笑の国』は、1回目のパリ及びヨーロッパ体験を綴ったもので、当時のパリの文学界芸術界の様子が克明に報告されています。巻末の旅日記を除き、おそらく新聞社の特派員記事として配信したものなので、極力自分の生活を出さないような書き方をしています。

 なかでも特筆すべきは、リュクサンブール公園で数百人を集め行なわれたヴェルレーヌの25年祭で、フェルナン・グレークがヴェルレーヌの臨終の場面を語り、ギュスターヴ・カーンが詩を捧げる様子を伝える文章の臨場感(p36)、ニーチェワーグナーの音楽から次第に離れて行った経緯を紹介し、ワーグナーの音楽には血の通った人間が出てこず、音楽も誇張の技法で固められている点を指摘し、それに対してフランス音楽が明るく人間的で、近年はドイツ音楽に引けを取らないと力説している所(p175)。前者は『回想の巴里』、後者は『巴里を語る』にも出てきました。

 それから細かくなりますが、ポール・フォールが象徴派運動の諸詩人について語り、ド・ノアイユ伯爵夫人が希臘時代からの香しい女性詩人について語った詩人講演会のこと(p29)、当時のフランス音楽には中近東の東邦情調が溢れていたこと(p82)。フォーレアルベール・サマンの詩を愛読していたことに触れての文章、「アルベエル・サマン!彼こそはまた実に霧と太陽との交錯の詩人、『優しき仏蘭西』の生みたる詩人として、ライン河の彼方の人々の中には見ることを難しとする柔らかき夢につつまれたる悲しみの心の所有者なのである」(p92)、モーリス・マーグルの詩劇『アルルカン』を見ていること(p137)、フローベールについて、初期と後期ではまったく別の人格が見られるとの一般的な見方を排して、一貫してロマンティックだと指摘していること(p227)などが印象に残りました。


 『巴里を語る』は、2回目のパリ滞在での経験をもとに書かれています。これも『歓喜と微笑の旅』と同様、パリの芸術界の状況の報告が主となっています。巻末に、シャトーブリアン、ロティ、リットン卿の生涯にまつわるエピソードを小説風に書いた3篇が収められていますが、これもなかなか味わい深い。

 ここで印象に残ったのは、第一次大戦後、世代が様変わりしたが、それは「血と泥の格闘の日」を送った彼らが、もはや戦前の「フランス風の典雅な社交」や儀礼にまったく価値を見い出せなくなったからと指摘した部分(p10)が真っ先に上げられます。またパリの街を歩き回ることがとても興趣があるとして綴った文章の美しさ(p45)、ドビュッシーの日本美術愛好癖が若い頃からのものであり本格的だったことを証言で裏づけている所(p248)、1回目のパリ滞在時には東洋趣味に驚いたが2回目の滞在時には東洋趣味に代って黒奴趣味が全盛であり、東洋を象徴している不動、静観、忍諦、慈悲から、動く、沸き上がる、打つ、泣く、怒る、さては殺すといったものに移ってしまったと書いている所(p295)も面白く読みました。


 『回想の巴里』は戦後日本に帰ってから、パリ生活の全体を回想しています。前二著と重複があるのはやむを得ませんが、こちらは初めてフランスに渡った時のことや下宿での生活など、自分の思いというものが全面的に出た文章になっています。

 ここでは、なによりも印象深かったのは、柳澤氏が乗っていたバスが動き出した時、そのバスに向かって走ってきたが乗ることができず、恨めしそうな顔をしてバスを見ていたポール・ヴァレリーの姿を描写したところ(p126)。あの賢く抑制的な印象のあるヴァレリーがそういう下世話な表情をするとは!

 またパリへの憧れがポール・フォールの詩集『感傷の巴里』に魅了されて助長されたと告白し(p21)、そのなかの「ムードン」についての詩を引用したりしています(p106)。ポール・フォールとは日本にいた頃手紙まで書き返事をもらったりしていましたが、パリでは畏れ多くて会いに行けず、西條八十と一緒にポール・フォールの講演会(それも『感傷の巴里』という演題)へ行った思い出を語っているくだり(p132)も印象的でした。

 プルーストの魅力について、サロンでの社交が消えつつあった時代に、それを意識し予想して、回顧的な感傷的な気分を多分に心に包んでその描写を行なっていると述べ、それが日本では永井荷風の作風にも通じるところがあると指摘している所(p204)にも感心しました。