:石黒敬七と渡辺紳一郎

///

石黒敬七『敬七ところところ』(十一組出版社 1942年)
石黒敬七『三色眼鏡』(岡倉書房 1951年)
渡辺紳一郎『花の巴里の橘や』(イヴニング・スター社 1947年)


 前回取りあげた松尾邦之助と同時代にパリにいた二人、石黒敬七渡辺紳一郎の書いたものを読みました。当然ながら、同じ話が出てきます。日本人相手に日本刀を売りつける岡本老人や服を買いに行くと妻に言って女遊びをした市川羽左衛門など、耳に胼胝ができるぐらいです。

 全体の印象は、石黒敬七のは、読んでいる分には楽しいですが、酒席でするような与太話がほとんど。柔道家なので体育会系の気質があるようで、時節柄の戦争賛美が目につきました。またところどころにダジャレがちりばめられているのが愛嬌ですが、そんなに面白くもない。それに対して、渡辺紳一郎はさすがに新聞記者だけあって、文章もしっかりして蘊蓄がちりばめられています。

 『敬七ところところ』にはフランスの話はほとんど出てきません。「巴里奇人傳」ぐらいですが、それも『三色眼鏡』と重複。この人の味が出ているのは、手品やサーカス、相撲や大男、世界の金の話など、子どもっぽい興味が開陳されているところで、キッチュな感じがします。一篇を取り上げるとしたら「日本曲藝師の話」でしょうか。

 『三色眼鏡』には、石黒がパリで日本人相手の「巴里週報」を出していたからだと思いますが、当時パリを訪れた日本人のゴシップが満載です。いろんな人物が出てきますが、大半は差し障りがあるために「(仮名)」となっているので、誰の話か分かりません。興味のある登場人物としては、同人誌「假面」の表紙を描いた版画家の永瀬義郎、「巴里週報」にダジャレ句を掲載していた迷人という人。一篇を取り上げるならその永瀬義郎の登場する「巴里貧乏物語」でしょうか。

 渡辺紳一郎といえば、私らの世代ではNHKの「私の秘密」のレギュラーとしての記憶がいちばんで、いつも何かしら変ったことを言っていたように思います。『花の巴里の橘や』は、渡辺紳一郎朝日新聞のパリ特派員、ストックホルム特派員、そして戦後まもなくの日本で見聞したことを書いたもので、戦中のヨーロッパにいた日本軍人や大使館員の愚かさを書いたところや、スウェーデンの風習、八丈島の記録は貴重。


 いくつか面白かったところをご紹介します(要約)。
羽左衛門がパリへ来た時、他のものにはあまり関心を示さなかったのに、グラン・ギニヨルへ芝居を見に行った時は「高島屋に見せてえな」と悉く感心、身を乗り出して、一生懸命に芝居見物したという(p10)。→これは歌舞伎とグラン・ギニヨルに共通するものがあるということだろう。
②日本に煙草が入ったのは戦国時代で、英仏に煙草が入ったのとそう時代は変わらない。徳川の世になって煙草は切支丹のものとして厳重な禁煙令が出た。しかし将来解禁になると見通して煙草や煙草道具を買占め大儲けをしたのが白木屋の先祖だという(p78)。
③日本語の「キセル」は、スペイン語由来で、パイプの材料であるキセエル(硅土)という意味(p80)。
④戦争中の連合国では有名スターがこぞって反日映画に出演していた。ミッキー・マウスが飛行家になって盛んに日本のゼロ・ファイタを叩落としたり、ポパイが日の丸の航空母艦を手取りにしたり、ジョンニイ・ウエンは対日戦争物専門と思われるほど活躍、ケリ・グラントが潜水艦長になって東京湾に潜入、大物の軍艦を魚雷でやっつけ、クラアク・ゲブルも日本の安物のタンクを手榴弾でやっつけるなど(p130)。→こうしたことは戦後の日本にはあまり知らされてなかったのではないか。戦後のジョン・ウェイン人気は何だったのか。
(以上『花の巴里の橘や』より)


①加納治五郎はレスリングについて書かれた洋書を勉強して技を磨いた。こうして生まれたのが肩車だという(p198)。→柔道は完全に日本古来の武術だと思っていたら、一部西洋伝来だったので驚き。
②ビールを最もうまく飲む方法はガスをいかに発散させずに飲むかということに帰着し、ガスが抜ければビールの命はなくなる(p294)→これは二度注ぎをして泡を立てて蓋をするのがビールをおいしく飲むコツという今の説と正反対。
埃及コプト人種の遺跡から立派なパイプが出土していて、アメリカンインディアンの千年以上も前に、何かを吸っていたらしいこと。煙草かどうかは解らないが煙の出る草の様なものであったに相違ない(p302)。
(以上『敬七ところところ』より)