:パリの日本画家群像を描いた本


三宅正太郎『パリ留学時代―美術家の青春遍歴』(雪華社 1966年)

                                   
 前回、藤田嗣治、小島善太郎のパリものを読んだ続きとして、日本画家のフランス滞在についての本を読みました。1910年代から30年代にかけてフランスへ渡った画家14名が紹介されています。たくさんの登場人物で資料として貴重です。名前を列挙すると、川島理一郎、小山敬三、東郷青児、海老原喜之助、高野三三男、岡田謙三、福沢一郎、岡鹿之助、向井潤吉、野口弥太郎、鳥海青児、山口薫、林武、宮本三郎。私の知らない人、名前程度の人も沢山ありました。著者は、新聞の美術担当学芸記者だったようで、年月日など事実をきちんと押さえる書き方にそれがよく表れています。

 たくさんの画家が登場するので、共通するところや違っている点を考えながら読んでみました。ひとつはフランスへ行こうとした動機についてですが、西洋美術を極めたい、それには本場で勉強するのがいちばんという思いが全員に共通しているのは当然です。絵の才能に対する自信があって、仲間が次々に出発して行くなかで遅れを取るまいというのが正直な感情でしょう。さらに、まわりの後押しというのが重要で、父親(川島理一郎、高野三三男、福沢一郎、岡鹿之助、野口弥太郎)、祖父(海老原喜之助)、姉(山口薫)、兄(岡田謙三)らが勧めてくれたりして、家がある程度裕福な例が多いですが、なかには先輩友人が渡欧画会を結成して支援したり(向井潤吉)、自力でしっかりと費用を捻出して行く(林武、宮本三郎)例もありました。

 フランスへ行ってからの絵画に対する態度にはいろいろあって、ほとんどがデッサンの研究所に通いながら、サロン・ドートンヌなどに出品するパターンが多いですが、すこし特色があるのがヨーロッパの画家らと親交を結び、人脈を作っていくタイプや(川島理一郎−マチス東郷青児マリネッティ、海老原喜之助−パスキン、ジャコメッティ岡鹿之助−ラプラード)、ルーブルで作品の模写に情熱を燃やした向井潤吉、フランスにはあまり寄りつかず、ドイツやアルジェリア、スペインなどを転々とした鳥海青児、ほとんど絵を描くこともなく浪費を繰り返してほうほうの体で帰国した岡田謙三などもいました。また別の角度から大きく分けると、当時のヨーロッパのシュールレアリスムやフォービスムの潮流に対して積極的にかかわっていこうと人たちと、それに背を向けてすこし前の世代の画家や中世、さらにはギリシア古典などを勉強しようという人たちの二つの態度があるように思われました。

 フランスでの生活ぶりもいろいろですが、初めは羽振りの良かった人も実家が零落して仕送りが途絶えるなど、貧乏生活を余儀なくされています。その背景に大恐慌による日本経済の没落と日本円の価値の下落があって、1920年代には日本の100円が1200フランだったのに、30年を過ぎると一挙に400フランと下落、34年にはさらに300フランと四分の一にまで落ちて、物価が四倍に跳ねあがったも同然という事態になったことです。それで20年代後半には毎年20名ほどが日本からやって来ていたのに、30年を過ぎると反対に帰国者が続出することになりました。貧乏生活への対応の仕方も様々で、一部屋に何人もが同居したり、急遽按摩などアルバイトでしのぐのやら、カフェで寝たりする者も出たようです。

 次に、フランスから帰ってきての彼らの行動ですが、フランス帰りというだけで、日本に当時乱立していた美術グループから引っ張りだこだったらしく、帰国の際にグループの人たちが港や駅に出迎えに来て争奪戦を繰り広げたということがあったようです。結局彼らが所属した美術グループは、二科(東郷青児、岡田謙三、向井潤吉、宮本三郎)や独立美術協会(海老原喜之助、福沢一郎、野口弥太郎)、国画創作協会(川島理一郎)、一水会(小山敬三、高野三三男)、春陽会(岡鹿之助、鳥海青児)などで、海老原が二科から独立美術協会、高野三三男が二科から一水会へ鞍替えし一悶着あったようです。山口薫などは、国画会→新時代洋画展→自由美術家協会→モダンアート協会と転々としています。


 この本でもいろいろ知らなかったことがたくさん出てきました。
与謝野鉄幹・晶子夫妻が1913年にレニエ、ヴェルハーレン、ロダンを訪問していること/p10
川島理一郎が当時の資生堂社長福原信三の要請で、資生堂とパリの香水店との特約に奔走したり、パリの流行の品々を資料として資生堂に送ったりしたこと/p14
川島理一郎がイサドラ・ダンカンの兄レイモンド・ダンカンからギリシア舞踊を習ったこと/p16→何かで藤田嗣治ギリシア踊りをしたというのを読んだことがあったがここにルーツがあったのか。
東郷青児は音楽家山田耕筰に西洋の最先端の美術を紹介されて絵の道に開眼していったこと/p44
東郷青児ラファイエット百貨店のデザイナーとして4年ほど勤めていたこと/p58
東郷青児が二科展に出品した滞欧作50余点を第一書房の主人長谷川巳之吉が全部買いとったこと/p60
登張竹風が仙台の高等学校でフランス語を教えていたこと/p131
稲垣足穂関西学院で野口弥太郎の同級か一年下くらいに居て、のちに「日本未来派協会」展に出品していたこと/p176