:パリで暮した日本人の回想記二冊

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永瀬義郎『放浪貴族』(国際PHP研究所 1977年)
薩摩治郎八『せ・し・ぼん―わが半生の夢』(山文社 1991年)


 引き続いてパリで長年暮らした日本人の回想記。永瀬は1929(昭和4)年から1936(昭和11)年まで、薩摩は1920(大正9)年頃から途中一時日本帰国を挟んで1959(昭和34)年までいたようです。対照的なのは、永瀬が操り人形芝居で稼いだり、アニメーションの原画を描いたり、素描を売ったりして生活費を捻出しながら貧乏暮らしをしていたのに対して、薩摩は富裕な家に育ち、フランスでも上流階級の仲間入りをしてパリの日本館に莫大な資金を提供するなどしているところです。

 薩摩治郎八は金を使う一方の一生で、羨ましいことかぎりなし。金目当てに集まってくる人々を歓待する様子に、馬鹿殿ぶりに気がつかない能天気さを感じることもしばし。まったく稼ぐ気がなさそうな態度にもだんだん腹が立ってきました。しかし一方で、柳澤健が巻末で「ぼくの周囲には彼よりもっと富裕に恵まれながら、一歩もサラリーマン的な平々凡々の生活の埒外から出なかった人々が、むしろ多いのに驚く」(p232)と書いているとおり、金を使うことにはその人の人格が表れ、物を作るに等しい創造的な意味や価値があるわけで、その点薩摩の金の使い方は立派なものだと思います。

 二人とも芸術家的素養や願望を発揮していて、永瀬は本業の版画、油絵の他に、演劇にも興味を持って、日本では劇団を作り自らも役者になっていますし、薩摩はフランスの音楽を日本に紹介したり、藤原義江を後援したり、創作としては、この本にも収められている小説を書いています。ただ、薩摩の小説の文章は、てにをはの使い方など日本語が変な気がします。よく帰国子女が日本語ができなくて困っている姿を目にしますが、薩摩も若くして海外に出たので、そういうところがあるのかもしれません。例えば次のような文章。

「だが巴里の下町や場末の夜霧はその瞳その眼をさえ小説家の感覚にはパナムの夜の花と映ずる秘語(ひめごと)を囁くのである」(p132)。
「夜業を約したパトロンの家のあるル・ペルチェ通りを過ぎたのは夜半の十二時過ぎで、それから温かいポトフの夜食を田舎風な食堂で分け合って明け方まで仕事をしようと言う彼の習慣に、私は彼の白髯の温顔を眼中に浮かべて、ことに夜霧の深く淀んだ街角を曲がった瞬間、一人の街娼が若い通行人の袖に引きずられながら叫んでいる姿にぶつかった」(p134)。
「私の胸底に秘められたギリシャ性が、此の一夜の冒険を伝統の美で理性を覆っていた。しかも相手は覆面のシャネル五番の香気を漂わせた未知の女性である」(p146)

 柳澤健によれば、薩摩の仏文で書かれた短篇『シクラメン・ロアイヤル』が玄人ならでは書けない小説で、彼の駆使するフランス語のうまさは完全に日本人離れしていた(p234)ということで、日本語よりフランス語の方が達者だったのかもしれません。日本語の小説の文章を読んでみても、若干大衆小説的とはいえ、情緒に溢れ詩語を鏤めたようなところはレニエなどこの時代のフランスの文章を髣髴とさせるところがあります。彼のフランス語短篇をぜひ読んでみたいものです。


 永瀬義郎を読もうと思ったきっかけは、石黒敬七が『三色眼鏡』の「巴里貧乏物語」で永瀬のことを書いていたのと、前から『假面』の表紙を長谷川潔と交代で担当していたのに興味を持っていたからです。彼の版画を2作アップしておきます。大正2年11月號の表紙は「闇の舞踏」、大正3年9月號表紙は「をんな」。
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 『放浪貴族』で何より印象に残ったのは谷中安規について書いた部分(p103〜112)で、ある日永瀬のところに、ふらりと日夏耿之介の紹介状を持って現れ、どさっとデッサンの束を預けてそのまま朝鮮に旅立ったと言います。その内容は、「《大乗陰門》四十七図、《小乗玩門》三十八図、《化物控帖》十五葉、《魔窟の黄昏》五十六枚、《処女膜》十図、《陰毛白黒》九十枚等々、谷中の限りない怪奇と幻想の飛び交うデッサンと版画」(p106)。

 その後1年ほどしてまたやってきましたが、その時の印象を、「そこに現れたのは人間じゃなくて、真白な着物を着た幽霊がフラフラと立ち現れたのではないかと思ったほど、谷中君の格好は変てこなものであった・・・どうしても笑いを禁じ得ないのは、どうも谷中君の腰の据わりが少しもなかったことだ・・・世に瘦身痩軀という言葉があるが、僕は未だかつてこんな痩せた男を見たことがない」(p108)と記しています。そして戦後、谷中が栄養失調でひとりバラック小屋で餓死したのを知って涙を流したと言い、谷中が「画人としての半生」(『版芸術』昭和7年11月号掲載)で、版画の道に入ったのは永瀬義郎氏の導きによると書いてあるのを読んで、「これがまるで、僕あてに書かれた遺稿のような気がしてならないんだ」(p111)と述懐しています。

 他にも、片岡鉄兵が永瀬の作った劇団で役者をしていたこと、川路柳虹は油絵を描いて『假面』主催の展覧会に出品していたこと、小山内薫が大阪でプラトン社という出版社の編集長をやっていて、川口松太郎直木三十五がそこに勤めていたこと、永瀬の美人だった最初の夫人が亡くなり偲ぶ会で北原白秋が弔詞を読んだ際、「ゆふかげり こもりてあかき ねむの花/ ほのかにきみも ねむりたまひし」という歌を詠んだことなどを知りました。