:荷風伝二冊

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佐藤春夫『小説永井荷風伝 他三篇』(岩波文庫 2009年)
小門勝二『永井荷風の生涯』(冬樹社 1977年)


 永井荷風の伝記を二冊読んでみました。佐藤春夫は慶応大学で荷風の講義を聴き、途中疎遠になった時期もありましたが、『永井荷風読本』の編集を任されるなど、荷風に近い存在だったようです。荷風の死後、作品論を交えて師の思い出を綴ったのが『小説永井荷風伝』。他に大戦後の荷風ブームを受けて書かれた二つの永井荷風論などを収録しています。小門勝二は、佐藤春夫のこの本にも名前が出てきますが、荷風晩年の市川時代に側近に居た人で、荷風の語った話をいろんな私家版で伝えています。『永井荷風の生涯』はそれらから抜粋して一冊にまとめたものです。

 佐藤春夫の本は、さすがに文学者だけあって、密度の濃い引き締まった文章ですが、若干美文調のところが目につきます。また師に対する敬愛の情のあまりに、言い訳めいた恐縮した様子が見られるところが面白い。小門勝二は、それに比べると文章が軽く、ところどころカストリ雑誌にあるような低劣な小説めいた筋書きが挿まれるなど、あまり好感が持てませんでした。が、もし本当であればとして、荷風の言葉が記録されているのが貴重。「年寄りから過去の夢まで取り上げられちゃ、生きていても、もぬけのからですぜ」(p23)とか、本当にこんな喋り方だったんでしょうか。


 『小説永井荷風伝』では、堀口大学とともに一高受験に失敗した荷風が、慶応大学入学に便宜を図ってもらおうと與謝野寛の紹介状を携えて二人で荷風の家を訪ねる場面、東京大空襲で偏奇館が蔵書とともに燃え落ちるのを見届けた後、中野から明石、岡山と逃げる先々で空襲に遭う悲惨な場面、それに荷風に取り入って原稿の偽筆を作り稼いでいた平井呈一のことを「巧言令色を事とする軽薄児」とボロカスに書いているのが印象的でした。

 荷風の作品の特徴について、初期には「温雅にほどのいい詠歎と、高邁な文明批評と、透徹した現実鑑賞とが、鼎の足となってその文学魂を支え捧げていた」(p211)が、明治の末ごろから文明批評を差し控え戯作者の方向へ進んでいったと指摘し、また相対立する登場人物が劇的に葛藤を生じさせるという展開が少なく、みんな似たような性格を帯びていることを「形影相弔のわびしい一種のナルシシズム」(p127)というふうに表現していました。「『場末の色町の近くなどで時たま感じ得るような緩やかに淡い哀愁の情味』などさながらにボードレールの世界を日本に見出し得たのを俳文で写生したようなただならぬ趣を呈し・・・荒涼とした妖しさと・・・古典風に重厚な趣とが合致した文境」(p218)と評されていた「勲章」を読んでみたくなりました。

 他に、芥川龍之介フェリシアン・ロップスの画集を所持していたり(p214)、荷風がベルギーの幻想作家としてよく取り上げられているジョルジュ・エクーを読んでいたこと(p270)も知りました。


 小門勝二の本は、前に書いたように荷風の言葉以外には、取り立てて新味のある話はなく、アメリカ時代の愛人イデスを架空の存在だとしているのが大胆な説ですが、その根拠は示されていません。それよりも、最後につけられた「荷風年譜」に参考になる記述が多くありました。


 印象に残ったのは、
荷風が好んだというトルストイの言葉、「この世に現れたとき、君は泣いたが、周囲の者はみな喜んだ。この世に暇を告げるときにもその伝で、みなは泣くが、君だけは微笑を浮べるというような具合にすることだ」(p16)、
荷風の父親は謹厳な性格だったが、祖父の匡威(熊次郎)は若い時には浮名を流した放蕩家であったこと(p284)、
③「やまと新聞」の記者助手となった時の雑報主任に岡本綺堂がいたこと(p287)、
荷風は暁星学校夜間部でフランス語を学んだこと(p287)、
⑤配本を前に印刷所で官憲の手に没収された発禁本「ふらんす物語」は当時12部のみ確認されていて、近代日本文芸書中の最高の古書価だったということ(p295)、
⑥「偏奇館」の名前はペンキ塗りの洋館だったことをもじってたわむれにつけたこと(p304)、など。