:萩原朔太郎の詩論二冊

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萩原朔太郎『詩の原理』(新潮文庫 1975年―青空文庫版)
萩原朔太郎『詩論―萩原朔太郎全集4』(小學館 1943年)


 詩の本を連続して読んでますが、今回は少し古いところで、萩原朔太郎の詩論です。朔太郎の詩には特別な魅力を感じて愛好してましたが、恥ずかしながら、これまで朔太郎の詩論はまともに読んだことがありませんでした。                                   

 『詩の原理』の「内容論」など、学生風の議論が目につくところもありますが、当時の詩の課題に正面から向かい、自分自身で考えを練りあげてるところには、感心しました。それと文章に抑揚が感じられ、それが読みやすくしてるひとつの要素と感じました。


 朔太郎の詩論を読んで、自分なりに理解したこと、これから注意しようと思ったことは、
①詩は他の文学ジャンルと比して、言葉自体に関心が高く、とくにリズムや音色に気を使うものだということ。
②詩は溜息の一種だと思っていたが、それは抒情詩の場合であって、ほかに思想詩や叙事詩など別のタイプの詩もあるということ。
③詩を読むとき、子音と母音の音色にもっとよく注意をして読んでみようと思ったこと。
④文章を書くとき、促音や拗音をできるだけ使って音の流れをよくしょうと思ったこと。
⑤言葉を書くときに、和語と漢語の別を気にかけ、不必要に漢語を使わないようにしようと思ったこと。
⑥日本の昔の言葉がペルシア語に似ていたという文章があったが、私も万葉集アラビア語の音に似ているような気がしてたので、いちど万葉集アラビア語文章の子音を拾って数を勘定し比較してみたらおもしろいかもしれない。
古今集新古今集あたりを読んでみようと思ったこと。


 以下自分なりに曲解してまとめてみますと、
 『詩の原理』は、「文学、芸術、及び人生の全般に於ける詩の地位が正しくどこにあるかを判別しようとするもの」という気合の入った「序」に続き、詩的なものとは何かを探る「内容論」と詩の音韻やリズムに注目する「形式論」の二つの側面から詩を論じています。

 「内容論」では、「主観的」と「客観的」という二つの軸を中心に、西欧と日本、詩や音楽・舞踊と絵画、短歌と俳句、抒情詩と叙事詩、さらには浪漫主義と自然主義など、芸術の世界を二つに色分けしています。詩的なものとは「珍しいもの、異常のもの、心の平地に浪を呼び起こすところのもの・・・即ち、現在(ザイン)していないもの」とその「主観的側面」に光をあて、そして、道徳、哲学、科学にも詩的精神があることを示し、最後に日常的な現実に埋没している日本の特殊性について考察しています。

 「形式論」では、定律詩でもなく散文でもない自由詩とは何かを音律の点から模索。短歌に見られる「調べ」に日本の音律の特徴を見て、その延長線上に自由詩にもある音楽律があるし、またなければならないと言います。そのためには日本の口語そのものに欠陥があるので、何十年もかけて口語自体を製錬しなければならないと結論づけています。


 いくつかの考えさせられるところや疑問がありました。他にもありますがとりあえず。
①朔太郎は、俳句が客観的であり、短歌が主観的情熱的と断言している。たしかにそのように思える。なぜ文字数の違いだけでそうなるのか。もし字数だけが理由であるなら、詩に比べて短歌の方が客観的といえるだろうか。
②「芸術のための芸術」の意味するところが私の思っていたのと違っていて、客観主義に分類され、小説では自然主義に通じるものと解釈されている。ロマン主義象徴主義ではなかったか。
③絵画的なものは観照という性格から反浪漫主義で、自然主義的なものと書いているが、絵画的な浪漫主義を展開したゴーチェはどうなるのだろうか。
④戦後詩においては、「イメージ」が詩を新しく主導していたように思う。が朔太郎はそれを音韻の機智的な代用品にすぎないという。


 『詩論』を先に読んだので、そのときのような新鮮な感激はあまり感じられませんでした。それとこの本はキンドルで読んだので、不便だなと思ったのは、このブログの文章を書こうとして、ぺらぺらとめくって思い出そうとしてできなかったこと。これはけっこう致命的かもしれません。


 『詩論』は、朔太郎の詩についての文章をあちこちの評論集から集めたもので、『詩の原理』と同時かその後に書かれたものが多いようです。『詩論』と『詩の原理』を読めば朔太郎の詩論はだいたいカバーしていると、「解題」に書いてありました。『詩の原理』にくらべて論がもう少し練られているような気がしました。

 「詩論Ⅰ」「詩論Ⅱ」「韻律論」「詩と言語」の四部からなり、「詩論Ⅰ」は原理論、「韻律論」は文字どおり音楽との比較や、韻律やリズムから論じたもの、「詩と言語」はかなと漢字、口語と文語から論じたもの、「詩論Ⅱ」はその他のものを年代別に並べたもの(かなり重複が多い)、となっています。

 「詩的感動」「純正自由詩論」「日本詩歌の韻律に関する原理」「自由詩のリズム」「仮名と漢字」「詩に於ける口語使用の不満感」がとくに際だっておりました。


 この本の主張を自分なりにまとめると、
①詩には抒情詩と叙事詩があり、日本では抒情詩からスタート、西洋では叙事詩からスタートして、抒情詩が登場したのは近代になってから。
②詩の本質は美にあり感動にあること。詩人も詩を読む人も「酔」を求めている。
③定律をもたない自由詩や無定形の散文詩が、かならずしも韻文でないということはないこと。何となく口調がよいと感じられるのは、不定則の自由韻すなわち「調べ」を持っているからで、それは「耳に聴こえない韻律」、言葉の気韻の中に包まれた「感じとしての韻律」だということ。
④口語詩に格調が欠けるのは今日の日本語が江戸時代の町人が使っていた言葉で、抽象的な概念や、情熱に乏しいものであるのが理由。
⑤漢字の使用によって、日本人は音に鈍感になってしまい、眼で文章を味わうようになってしまったこと。


 面倒くさいので、印象的な文章を引用してお茶を濁します(それと朔太郎自身の言葉を味わっていただくためにも)。

どんな場合にも、詩を書くといふ気持ちの中には、本質的の楽しさ(愉悦)がひそんで居る・・・さうした詩人の愉悦は、丁度悲劇を見て泣く女たちが、泣くこと自体に楽しさを感じてゐるのと同じ/p46

當時の新しき短詩を「新派和歌」とか「新派俳句」とか呼んだやうに・・・新体詩を「新派今様」と言ふべきだつた/p65

日本の小説は、口語採用以来初めて真の散文主義に立脚し、過去の文章語による韻文的臭気を脱却した。然るに詩の方はこれに反し、口語詩によつてその韻文精神を失喪し、プロゼックな散文の中に低落して行つた/p100

詩はすべての文学中で、最も約束の多い芸術である。韻律と、ラインと、イメーヂと、てにをはと、それからあらゆる言葉の約束とが、詩の形態に於て規定されてる/p119

すべての善き詩人はペテン師である。詩術を持たないところの詩人は、花の咲かない花樹と同じく、無意味で退屈なものにすぎない/p128

真の熱情家は詩人ではなくして、事業家や、政治家や、相場師や、冒険家や、軍人等である・・・詩人という人種は、此等の「行動人」から最も遠い距離に居るところの、非熱情的、非行動的の人種である。しかもまた彼等は、それらの熱情や行動やを、最も強く意欲し、イデアにあこがれて居る人種なのだ/p129

香川桂園の如きも、日本の詩歌には「韻律」がなく、「調べ」があるばかりだと言つてる。実際また昔の日本人は、漢詩人を除く外、決して韻律など言ふ語を用ひなかつた/p228

我々の情緒が昂進して、何かの強い詩的感動に打たれる時、自然、我々の言葉には抑揚がついてくる。そしてこの抑揚は、心理的必然の傾向として、常に音楽的拍節の快美な進行と一致する故に、知らず知らず一定の韻律がそこに形成されてくる/p286