:吉田健一の二冊

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吉田健一『詩と近代』(小澤書店 1975年)
吉田健一『汽車旅の酒』(中公文庫 2015年)

                                   
 引き続き吉田健一を読んでいます。今回は、文学評論と随筆の変な組合せ。『詩と近代』は後年の作品でまともになってきたからか、私が吉田健一の文章に慣れてきたのか、また『汽車旅の酒』は一般向けの随筆だからか、ずいぶん文章が読みやすく感じられました。

 『詩と近代』の「ヴァレリイ」の章にこんな文章がありました。「当時書いたものを今読み返して見ると、・・・全く形をなしていない判じものでしかない悪文が少なくなくて、雑誌その他によくあんなものが載ったと思う」(p98)。よく分ってらっしゃる。


 『詩と近代』は、巻頭と巻末に総論的評論を置き、あいだに英米文学を中心とした作家についての評論を収めています。総論部分は前回読んだおなじみの持論を展開していてやはり極論が多くあまり感心できませんでしたが、個々の作家を取り上げたものは味わい深く感じられました。

 なかでは「ポオ」が圧巻。ポーが一般に思われているようなアル中の風来坊ではなく、実務にも優れた人間であったという指摘の後、一つの中心に向かってすべてを構成し読者に衝撃を与えようとする短篇小説という形を創始したのがポーで、そのために奇異なものを材料に据え、異常な状況を作り出す美学を打ち立てたとしています。探偵小説もポーの美的な関心から作られたものであると言い、今日の探偵小説が美を無視し異常さの刺激だけを求めマンネリに陥っている状況への批判に及んでいます。また短さの重要性に着眼したポーの詩論を評価しています。

 ほかに、詩の強さという点に触れた「ボオドレエル」、著者のヴァレリイへの熱狂を告白した「ヴァレリイ」、批評と創作の関係や印象批評の是非を論じた「エリオット」、ブロンテ姉妹の特殊な育ち方を描いた「ブロンテ」が光っていました。

 『詩と近代』では、中原中也の詩が帰属するのが「萩原朔太郎を素通りして森鴎外」で、日本の近代詩がヨーロッパの悪しきロマン主義の影響を受けていると書かれていますが、これは著者がやはり正統的な感性を求めていることを露呈しています。萩原朔太郎で駄目なら私の熱愛する大手拓次などはもってのほかと言うことでしょう。


 『汽車旅の酒』は、これまで読んだ硬派な印象とは打って変わって、とても人間的な文章。吉田健一の言葉で言えば文明的ということになるでしょうか。旅に出る前に東京駅の精養軒で一杯飲まずにはいられない話(p24)など可愛らしい一面が見られます。

 読みながら、旅に出たくなる気持ちがむずむずとしてきました。ちょうど折り合いよく、友人らと岡山に古本ツアーに行く話がまとまったので、今ワクワクしているところです。

 
 旅に関する名言がちりばめられていましたので、いくつかご紹介します。

ゆっくり飲んだり、食べたり出来ない旅行は意味がない。/p10

旅行をする時は、気が付いて見たら汽車に乗っていたという風でありたいものである。/p13

行った先のことは着いてからに任せてこそ、旅行を楽しむ余地が生じる。/p14

旅行をしている時に本や雑誌を読むの程、愚の骨頂はない。/p27

旅に出るのならば・・・食事をするのにも、何をするのにも、こうすれば安く上るなどということを考えていたのでは日常生活の延長で、それ位ならば旅費の分だけどこか手近な場所で飲んだ方がいい。・・・どこか支那料理屋の隅ででも悠々とやった方が、ずっと旅に出た気分になれる。/p120

もの珍しかったり、目先が変ったりするのと反対で、旅をしている時、或る場所がいつ来て見ても同じであること位、嬉しいものはない。/p140


 日本海側や東北への旅の話が多い気がするのは東京の人だからだろうとか、吉田健一の時代と現在では駅弁の様もずいぶん変わったとか、最後の二篇は小説で「道端」は少々観念的すぎ、「東北本線」の方が人間がくっきりと描かれていて好ましいなど、素人の感想を述べるよりも、著者自らの言葉を引用しておきます。

能面でも殊に女の面はいつも何か月光を浴びているように思われて金沢で電気が点いている部屋で飲んでいてもどこかに月光が差しているきがするのも金沢の酒というものの一徳かも知れない。/p19

汗だくになって夏の町中を歩いている人間がビヤホールに入ってジョッキを二、三杯も空ければ、そこに別天地が開けて、厳密に言ってそれがビヤホールに入る前と同じ人間かどうか解らなくなる。/p70

仕事をするとか、稼ぐとかいうことの他に、人間の生活が広大に横たわっているのが、近頃になって漸く感じられて来た/p138

二日酔いの頭を抱えた翌朝が雨だったりすると、ぼんやり雨だと思って外を眺めているのもなかなかいいもので、人間、そういう時でもなければ自分が確かに自分がいる所にいるのを感じるのは難しい。/p148