堀江敏幸の二冊

  
堀江敏幸『正弦曲線』(中央公論新社 2010年)
堀江敏幸『その姿の消し方―Pour saluer André Louchet: à la recherche d’un poète inconnu』(新潮社 2017年)                                              


 清水茂や伊藤海彦、矢内原伊作と、最近フランス系エッセイを読んできたので、その流れで読んでみました。堀江敏幸の作品は、98年頃に、『郊外へ』、『おぱらばん』と続けて読んで、小説とエッセイの中間を行くような不思議な境地に引きずり込まれ、フランスものの書き手でそれまでにない新しい感性を持った世代が登場したと衝撃を受けたことを思い出します。

 はっきり覚えていませんが、洒落た文章からは、村上春樹のフランス版のような印象も持ち、村上春樹フィッツジェラルドやカーヴァーなどアメリカ作家から影響を受けたとすれば、堀江敏幸にはモディアーノの影響があるように思いました。その後、『ゼラニウム』、『熊の敷石』を読み、ともに小説的な要素が強くなったというぐらいで、内容はよく覚えてませんが、いずれも高評価をつけています。

 今回は、『正弦曲線』はエッセイ、『その姿の消し方』は長篇小説の体裁をとっています。何と言っても惹きつけられたのは、『その姿の消し方』のほうです。冒頭何とも言えずミステリアスな滑り出し。
留学時代に古物市で偶然古い絵はがきを購入し、その通信面に書かれたぴったり10行の矩形に収められた詩が気になって、古物市の絵はがき屋に、同じような絵はがきがあればと頼んだところ、半年後に1枚、それから1年半後にもう1枚と入手できた。それらすべてに1行の矩形の詩が書かれていて、絵はがきの絵柄、差出人も宛先も同一だったというものです。その詩がまたシュルレアリスム詩のような散文詩でなかなかいい。

それから10年以上経って、再びフランス滞在の機会があったとき、思い切って絵はがきの写真の町へ出かけて役所に問い合わせると、差出人が隣の市の会計検査官だったことが分かり、そこから、その人の孫と会ったり、その会計検査官のポートレートを持っているという古物商から、商工会のパンフレットに落書きされた4番目の詩を入手したりと、新たな展開をしていきます。この謎を追う展開は、モディアーノの小説を思わせます。

 フランス留学時の体験に基づいたエッセイかと思って読み始めましたが、あまりに意外な展開の仕方をするのと、引用されている詩が出来過ぎなので、長篇小説だとするのがまっとうだと思い直しました。しかし事実のような気もするし、どこまでがフィクションでどこまでが事実かよく分かりません。もしこの話がまったく架空の話であるなら、著者の才能は凄いとしか言いようがありません。

 小説としての構成上、謎を解くポイントが複数あり、一つが絵はがきの写真の建物、一つが差出人の名前(住所なし)、一つが宛先の女性の名前と住所、一つが投函された年月、そしてもう一つが、書かれている詩そのものです。途中、その詩の解釈をめぐって、詩行が反復して引用されるのが、詩の味わいを深めて、とても効果的。しかし作者は一方でこう書いています。「もっともらしい読み筋を示したとたん、絵はがきの文言をただ飲み込んだ瞬間の驚きと心地よいめまいは消えてしまう」(p73)。その驚きと心地よいめまいこそが詩の核心です。

 出だしのスリリングな作品では、後半は、期待の重さとのバランスを欠いて失速してしまうことがよくありますが、本作も、冒頭章の「波打つ格子」からちょうど真ん中あたりの「数えられない言葉」の章あたりまでは緊張感が持続しますが、私の読み方のせいもあるのか、その後が散漫な感じになってしまっているのが残念。


 『正弦曲線』は、46の章に分かれたエッセイ集ですが、独特な感性が感じられました。それは、三角関数の正弦からはじまり、地球ゴマ、風景の曲線、階段の歩幅、声の波長の正弦曲線、楕円(オブラート)、上昇気流、グライダー、周期律表、海の深さの測量、曲線軌道、転轍機など、幾何や物理の要素が一つの基調となっていて、それに文学的な見方が加わり、文理の入り混じった独特な境地が醸成されていることです。

 そういうこともあってか、どちらかと言えば、理屈っぽい文章にはなっていますが、日常生活のなかから、他の文芸作家が無視するようなネタをうまく見つけ出す感性はさすがです。本人は田舎育ちと謙遜していますが、なかなかの都会的な感性の持ち主で、団塊の世代の私などとは違う世代的な若さを感じます。

 ただ悪く言えば、前回読んだ伊藤海彦の大人びて落ち着いた筆致と違って、どこか人より一頭地を抜こうとするような、気の利いたフレーズを入れたり、話の最後に落ちをつけずにはおれないようなところがあるのが、少々気になります。別の言い方をすれば、自然ににじみ出るという感覚がなく、つくりもの感が残るということです。『おぱらばん』や『郊外へ』を読んだときは気になりませんでしたが、今から考えると、すでにその要素があったのかもしれません。