:『詩のこころ・美のかたち』など杉山平一の本三冊

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杉山平一『詩のこころ・美のかたち』(講談社現代新書 1989年)
杉山平一『詩と映画と人生』(ブレーンセンター 1994年)
杉山平一『詩と生きるかたち』(編集工房ノア 2006年)


 しばらく詩集や詩の鑑賞の手引などを読んでいきたいと思います。まず一昨年『詩への接近』(2011年8月26日記事参照)で美学的な考察に感心した杉山平一の三冊から。

 この三冊のなかでは、『詩のこころ・美のかたち』がいちばんまとまっていて、『詩への接近』に近く、美学の網羅的な考察が展開されています。『詩と映画と人生』は大阪府の「なにわ塾」というところで5回連続で行った講義録で、これらの三冊のなかでは自伝的要素が強い。『詩と生きるかたち』は前半は詩誌等への寄稿、後半は各所で行った講演録の寄せ集め。重複が多く、本としてはまとまりに欠ける印象です。
                                   
 杉山平一の本を全部読んだわけでもなく、肝心の詩も読んでおらず、全体の業績も詳しく知りませんが、その魅力のポイントは、1)詩を映画の技法と引き比べて解説しているところ、2)美学に関連する考察やそれを裏づける幅広い知識、3)「四季」を通じていろんな詩人との交友があり、詩人たちの素顔が覗けること、4)論理的かつ素直な語り口、といったところでしょうか。

 いくつか考えさせられる点がありました。ひとつは改行詩と散文詩と散文の違い。改行詩と散文(あるいは散文詩)については、ただ散文を行分けしただけでは詩とは言えないということもよく言われますが改行という一点で区別は明らかです。散文詩と散文の違いということが塾生からの質問で出てきて(『詩と映画と人生』p127)、結局著者は答えていませんが、これはなかなか難しい問題だということ。散文詩がエッセイや小説とどう違うと言われれば、詩語や比喩の多用といっても使ってない散文詩もあり得るだろうし、会話があるかどうかといっても会話のある散文詩もあるだろうし、会話のない小説もあり得る、作者が規定すれば散文詩だということぐらいしか言えないと思いますが、ここでも、やはり長さというものがある程度判断の材料になるのではないでしょうか。長編散文詩というのはあり得るかどうか?

 また、詩の分かりにくさということも論点になっていて、「分かることは野暮で、詩という粋な世界からは遠い(『詩と生きるかたち』p20)」とか、「わかるという理性あるいは感性の秩序におさまる部分に対し、わからないという部分は限りなく広大である(p21)」と分かりにくさを擁護しています。そして「意味不明でも、こいつはひきつける、というものがある(p23)」と、理解とは別の受容のしかたを示唆していますが、これは詩を論じる際のポイントで、どういった受容のあり方かその点に注力することが重要だと思います。

 戦時中の詩人が戦争詩を書いたことを鬼の首を取ったように責め立てる人に対して、野球の報道が、大阪=タイガース、名古屋=中日、東京=巨人というように地方によって異なることを例に、報道というものに読者の期待に応えようとする性質があることに注意を促し(『詩と生きるかたち』p21)、詩人が校歌を頼まれて書いても詩人の作品集には入れないのと同じで、戦争詩だけを詩人の作品として特別視することに疑問を呈し(p50)、さらに続けて、大戦後、映画監督の伊丹万作が戦争映画糾弾組織の理事に推薦された時の断りの言葉を引用しています。「自分が戦争映画を作らなかったのは、注文がなかったからで、糾弾などおぞましい。私を非国民呼ばわりしたのは、軍部でも当局でもない、きみたち隣人だった(p51)」。伊丹万作という人は何と勇気のある人なんでしょう。

 それから、「何が書いてあるかもう知っているのに読むというところに、詩というものの非常に不思議な世界がある(『詩と生きるかたち』p132)」と指摘していますが、 これは音楽にも通じる受容のしかたで、何度も聴いているうちに魅力がどんどん顕らかになっていくという芸術の神秘の力を感じさせます。

 あと、個人的な興味で面白かったのは、著者が雑誌の編集をしていたときに、小栗虫太郎の家へ原稿をもらいに行ったことがあったという話で、部屋には百科事典みたいなものがちょっとあったぐらいで、机の上には何も本が置いてなかったというくだりとか(『詩と映画と人生』p99)。

 また、耳をふさいでディスコの情景だけを見たら、一生懸命に踊っている姿のおかしさが見えてくるという文章がありましたが(『詩と映画と人生』p196)、いま読んでいるMaurice Pons「Métrobate」にも同様のフレーズが出てきたので、遠く離れても同じことを考える人がいるんだなと思いました。


 この他に、印象深かったところを引用しておきます。

事実を真似ることは本能的な喜びであり、しかも、真似られたものは、事実よりも面白く楽しく見られるのは、芝居のみならず、芸術一般に通ずること/p25

哲学者のアランは、観兵式から入場式や、儀式的な礼節までも、すべて舞踊の変型と見ている/p50

社交ダンス・・・恋愛というものの気怯れ、手をとりあう恥かしさを、「型」にして誰にでもできるように工夫したもの/p51

はかない「原形への夢」こそが、我々の「郷愁」というものである。我々はいつも心の底に「原形」をもつ/p69

美は遠方からしか見えないのである。そして、遠隔対象への思慕が、芸術を生み出すエネルギーとなるのである/p104

芸術の基点である「象徴」というものも、じつは、実体を隠す方法のひとつである。隠されることによって、あらわれるのである/p184

以上『詩のこころ・美のかたち』

テレビのドラマなどでジーンと電話のベルが鳴ると、自分の家の電話が鳴ったのかと錯覚することがありますね。あの音は本物だからです。ところが、その電話の映像は本物ではなく、手でつかめない影に過ぎません/p158

以上『詩と映画と人生』

映画というもの・・・ちぎって繋いで、分割して結合していく面白さ(p71)・・・映画の画面というものは漢詩や漢文なんかと同じように、「てにをは」がないわけです。だからそのつなぎ方によって解釈がいろいろ・・・意味が、とり方によって違ってくる/p82

観客の五分間はこの、舞台の五分間と同じなんです。ところが映画の場合は全然でたらめなんです/p105

以上『詩と生きるかたち』