:中村光夫の二冊

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中村光夫『戦争まで―仏蘭西紀行集』(實業之日本社 1942年)
中村光夫『憂しと見し世―文学回想』(中公文庫 1982年)

                                   
 『世界紀行文學全集 フランスⅡ』で中村光夫の文章に惹かれたので読んでみました。その時読んだ「ロアルの宮殿」という文章は、今回読んだ『戦争まで』の第Ⅱ部を引用したもので、その部分は2回読むことになりましたが、何度読んでも新鮮な魅力が感じられました。

 この『戦争まで』は永井荷風以来のフランス滞在物のなかでかなり傑作の部類に入るのではないでしょうか。冒頭に、小林秀雄宛てにパリでの文学体験を綴った「パリ通信」を配し、次に「戦争まで」の総タイトルのもとに、第二次世界大戦の勃発でボルドーからイギリスへ脱出した時の様子から始め、時間を巻き戻してトゥールで語学学校へ通った時の下宿生活を報告した第Ⅰ部「トウルの宿」、ロアル地方の歴史文化を語った第Ⅱ部「ロアルの宮殿」、トゥールでの交友関係を語りながら最後に戦争の足音が聞えてくる雰囲気を伝える第Ⅲ部「戦争まで」というふうに構成されています。時間的には第Ⅲ部の終わりが第Ⅰ部の冒頭につながる形です。

 大きく分けると、留学での体験を綴った部分と、フランスの歴史文化を語った部分の二つがあり、留学体験の部分では、フランスの自然や街並みなどの描写も美しいですが、なんといっても、下宿の大家の家族や下宿人、学校の同級生など、人々の描写が生き生きとしていることが特筆すべき点です。彼らとのやり取り、交友関係が詳細に書かれていて、それも20歳代の若者の心情を通して見た世界として描かれているので、一緒に留学しているような気分になってしまいました。永井荷風山田稔堀江敏幸大久保喬樹玉村豊男鹿島茂(これは小説の形)、辻邦生(実はあまり読んでないが)、遠藤周作(今読んでいる最中)など、これまでフランス滞在記にはそれぞれ個性があって好きな読物ジャンルですが、そのコレクションのなかに一冊新たに加わることになりました。

 歴史を語った部分では、以前「世界紀行文學全集 フランスⅡ」の時にも書いたように、歴史への熱情が感じられ、またところどころ鋭い洞察がちりばめられていて、たいへん勉強になりました。とくにシュノンソー宮殿の描写は抜群で、本書の白眉ともいえるでしょう。ぜひともロワール地方へ行かなければと思いを強くしました。

 中村光夫の文章は、やはり戦前育ちの文学者らしく、どこかしら大人びた格調高さを感じさせますが、決して読みにくくはなく、一文が長いのにとても読みやすく感じました。意味が取りやすいのは文章がこなれているからでしょう。前回読んだ杉捷夫の理屈っぽい文章と違って読んでいる間じゅう、幸せな気持ちになりました。

 ただ戦前の悪い点で、若干美文調の表現の仕方が気になりました。例えばヨーロッパの絵画や建築について、専門的な知識は欠如していて具体的な解析ができない分、印象でいろいろと自分なりに推理を働かせながら書くときに、そういう文章になってしまっています。例えば「あの頃の絵に表現されたものは、人間の観念でもなければ、社会の劇でもありません。あるものはただ純潔な肉体の詩です」(p13)といった具合。

 ついでに断片的ですが面白かった部分は、初めてフランス人と話した時に「一向に話が通じません。何しろ発音が出鱈目の上アクセントが違っているので、向うに解る言葉は五つに一つで、それも此方は日本語で考えたことを一々翻訳するのですから手数がかかります」(p117)という部分、大いに安心しました。また下宿のお内儀さんがクロード・ファーレルを愛読していること(p129)が書いてありましたが、これでファレールが大衆作家だったことが分かります。コレージュ・ド・フランスヴァレリーの講義に通った時の「ヴァレリイの風貌や口のきき方などにはどこか僕等が昔習った漢文の先生といったところがある」(p25)という印象も普段聞けない話です。


 『憂しと見し世』は『戦争まで』があまりに面白かったので、たまたま本を持っていたのと、『戦争まで』に続く日本に帰国してからの時期のことを書いた回想記なので読んでみました。この文章もですます調で、とても読みやすい。

 この本では日本が戦争に突入して敗戦を迎えるまでの社会の状況が生々しく描かれています。とくに出版界では、出版社が次々併合され、雑誌や全集が中断廃絶に追い込まれる一方、作家たちが日本文学報国会という組織を作らされて戦争に巻き込まれていく様子。また住んでいる地域では、徴兵検査丙種の人々に対する訓練を受けたり、隣組の防火群長になって忙しい日々を送るなか、配給で苦労する様子が描かれています。しかしそんななかでも、エミール・マールの『フランスにおける中世宗教美術』全4巻を原書で読んでいたというから大したものです。「日本軍がこれ程強いと予想もしていなかったので、一般の軍人礼讃の声に僕らも同調しました」(p93)と、開戦期の日本軍を応援する気持ちを正直に書いているのは偉い。


 いくつか興味深い指摘や知らなかったことがありました。
①戦時中、国がヒステリックなスローガンを繰返していたのは、ヨーロッパの国民が国境が近く軍事的脅威にたえず曝されていたのに対し、日本は他国と国境を接していないので、国民がややもすると「時局を忘れ」がちだったからという説明(p19)
②当局から白い眼で見られたヨーロッパ文学や哲学が、一般の読者からは強く要望されていた現象を、配給と闇との関係になぞらえて論じた部分(p20)
③当時料亭で酒を呑みながら喋ったことを活字にする日本の座談会記事について、他国には見られない特徴だと書いている所(p111)
昭和19年の暮れから、情報局の文芸書出版に対する方針が変わり、時局迎合の戦意昂揚をうたった作品は読まれないし実効をあげないので、苛烈な戦時の生活の慰藉になるような小説の出版を奨励するという通達があったこと(p170)。


 またさらに瑣末な部分で面白かったのは、吉田健一が兵隊に出て休暇で帰ってきた時、訓練の話などせず、大食の才能を認められて夜中に残飯処理に狩りだされるようになったので腹が減らずにすむとか、他愛のないことを言って「畳の上はいいね」と寝ころんでばかりいた姿(p195)。