随想風哲学書二冊

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庭田茂吉『ミニマ・フィロソフィア』(萌書房 2002年)
山内得立『ホモ・ヴィアトール―旅する人』(能仁書房 1958年)
                                   
 哲学書らしきもののなかから、あまり哲学用語が出てこない随想風の本を選んでみました。『ミニマ・フィロソフィア』は、タイトルにフィロソフィアとは書かれているものの、「あとがき」に「ミニマ・フィロソフィアとは日常的な知恵のこと」とあるのを見て、また『ホモ・ヴィアトール』は、著者名が強面の哲学者でしたが、造本がとてもお洒落だったのと、芭蕉について書かれているページがあったので、買ったものです。

 予想にたがわず、『ミニマ・フィロソフィア』は哲学者然としたところがなく、全編に正直さが感じられ、私の性分に符合するものでした。とくに「死の匂い」が秀逸。枯れ木や落ち葉のここちよさから書き出し、現代人の日常の中から生のディテールが失われていることに筆を進め、菌臭の鎮静効果を説いたあと、耄碌状態で死ぬことを薦めています。中井久夫からの引用になりますが、次のような文章にしびれました。

「菌臭は死‐分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け容れる準備のようなものがあるからのように思う。自分の帰ってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである」(p42)

神道が、すでに、森の奥の空き地に石を一つ置いたものを拝むところから始まっている。樹脂と腐葉土の匂いの世界を聖としたのである」(p43)

 冒頭の「二つの朝」からして、死がすぐ近くにあり、親しいものとして生と地続きの人々を描いていて、ドキッとさせられましたし、次の「日常の中の哲学」も、「疑いを自分に向けること」(p18)とか、「歴史がまず各個人のものでなければならない」(p22)とか、全共闘時代によく聞いたようなフレーズに意を同じくしました。「人は今ここにいる」では、ノスタルジアという言葉がもとは医学用語であり、初めは故郷からの離別による精神不安の意味で空間的だったのが、カントによって時間的なものと捉えられたということを知り、「経験というハラハラ、ドキドキ」では著者の6歳の娘さんへの思いに感動させられました。

 この本は、萌書房という奈良の出版社から出されています。地元なので応援したいし、続編もあるようなので読んでみたいと思っています。


 『ホモ・ヴィアトール』の造本は、細川叢書によく似ていて、幅広の版型で、手に取ると軽く、表装の紙質が柔らかくて印字がめり込むような感じなのがいい。能仁叢書とあるので他にもあるのかと思い、ネットで調べてみましたが見つかりませんでした。

 この本は、著者の京都大学での公開講演の内容を、ずっと後になって聴講者のメモを頼りに復元したもので、言葉遣いが易しい感じになっています。内容は、知るということには、通常の認識とは違うbekannt(熟知せられた)というあり方があり、それは直接自らがそのものと合一することにより知るということだ、という前置きのあと、昔から人間を、「知る人(homo sapiens)」と「作る人(homo faber)」とに分ける考え方があるが、この外に「旅する人(homo viator)」を加えたいと主張しています。ホモ・ヴィアトールとは、旅を旅する人で、芸術的、宗教的な性格を持つもので、何かを求めて得る結果に喜びを見出すのでなく、求めること自体に喜びを見出す精神であると言い、芭蕉を例に挙げ芭蕉の言葉を引用しながらその精神を説明しています。

 「知る人」、「作る人」、「旅する人」とよく似た分類として、オリンポス競技での「名誉を求める競技者」、「競技を当てこんで儲けようとする商人」、「競技を楽しまんとする観客」があり、三番目の人たちをアリストテレスが「テオリアの人」と呼んで、「名利を離れて純粋に見ることを人生最上の生活とみなした」(p13)ことが紹介されていましたが、この「テオリアの人」が「旅する人」と呼応するように感じました。

 もう一か所、古代から現代にかけてを、人々の情念から辿って次のように書いているところが印象に残りました。「古代に於いて文化を出発せしめ且つ支配したものは『驚き』の念であり、中世の指導的情念は『讃嘆』であったが、デカルトに始まる近代精神は『懐疑』に発し、カントの『批判』を通して現代に於いてそれは遂に『絶望』にまで追いつめられた」(p80)。現在はそれすらも通り越して、私もその中にどっぷりと浸かっている「能天気」の時代と言えるでしょうか。