:杉山二郎『大仏以後』


杉山二郎『大仏以後』(学生社 1986年)


 『大仏建立』の続編。大仏を造った後、鑑真和上の来日、実忠和尚による大仏の様々な補修工事、道鏡の登場など、いろんな事件が起こるさまを描いています。なかでも衝撃的なのは、せっかく大仏や王宮の諸施設を造ったのに、数十年後にはあっさりと平城京を棄てて平安京へ移った、その原因として、大仏建立による重金属公害が発生したのではないかという大胆な予測をしているところです。

 この本でいちばん印象に残った部分は、本筋から離れますが、中国唐朝時代、玄宗の前で繰り広げられた道教の羅公遠と密教の金剛三蔵の幻術合戦。あまりに面白いので、長くなりますが引用します。

天子が・・・背の痒きを覚えたから、公遠は早速竹枝を折りて方術で七宝の如意となして天子に進めたが、金剛三蔵が袖の中から真の如意を出し・・・公遠の献じたものは竹枝となりてしまいました。・・・また公遠が符を飛ばして三蔵の金襴の袈裟を奪うたが、三蔵は呪を誦してこれを取った。公遠は更に水龍符を袈裟の上に選んだが、袈裟は散して、糸褸となりて盡きた。(榊亮三郎『弘法大師と其の時代』より)/p219

玄宗は怒って公遠を漫罵った。すると公遠は遂に走って殿中の柱に隠れてしまった。柱のどこを探しても居ないので、益々怒り狂って玄宗は柱を切り粉々にしてみた。また大声がして私は石磶(せきせつ)の中にいますよと公遠の叫ぶ声、磶をとってよく見ると鏡のように輝くなかに公遠の姿が見えた。磶の長さは一寸許り。そこで砕いて十数片にしてみたところ、その全ての破片に公遠の姿が映っていた。遂に玄宗は懼れをなして謝った。(『酉陽雑俎』より)/p221

                                   
 本筋に戻ると、大仏建立の直後にやや平穏が訪れた以外は、疫病や旱魃、飢饉が毎年のように発生し、税金を取るどころか、逆に臨時の出費がどんどん出て行く有様。役人の精励を促したり、税金を免除する詔勅が連発されています。いかに日常生活の安定が国家の一大事であったかということ、それに宗教が絡んできているのがよく分かります。学問としての仏教から、天候和順、旱魃除消祈願する仏教へと移り、さらには祟りや日蝕という怪異現象に対応するべく、怨恨魍魎の消滅のための呪術祈禱へと移って行く様子が描かれています。晩年の鑑真和上も律宗を信条としながらも密教的な布教をせざるを得なくなっていたと言います。


 主要な主張点をいくつかピックアップすると、
①三月堂の不空羂索観音の宝冠の珠玉の数はおよそ27000個に達し、天平時代の工芸美術の粋を結集した作品であり、また興福寺東大寺の鎮壇具として夥しい数の珠玉、ガラス珠が納入されているが、これらは平城宮域で破壊した古墳出土の副葬品が主体をなしていたのではなかったか。
②鑑真を誰が招聘し誰が費用負担したのか。鑑真が苦難を越えてようやく日本に辿り着いた時、良弁や朝廷にとっては予想外の出来事で、鑑真の身元取り調べが行われたことが記されている。ということは朝廷が呼んだのではなかったのか。また持参物に薬料香料や衣食住の最新流行品が多くあり技術者たち185人が随行していたことから考えると、当時の国際ホテルとも言うべき大安寺に居住していた江南区出身の航海業者、貿易商たちが、天平の政治、社会、経済の要求の赴くところを察知して、鑑真を招聘しようとしたのではないか。
③実忠和尚が大仏建立後の整備を一手に引き受け、素早く修理対処し目覚ましい活躍をしているが、造仏所の総師であった国中連公麿のグループと確執があったことが窺われる。実忠の整備事業には土木営繕の色彩が濃く、行基亡きあとの行基集団を輩下に吸収していたのではないか。
天平宝字5年(761)3月に、多種多量の薬物出蔵が行われているが、これは重金属公害病への対処と思われる。東大寺近辺にいた僧侶に薬が与えられているのをみると、佐保川水系を飲料水としていた人たちを直撃したのだろう。その後、宝亀5年(774)2月、天下諸国の寺に魔訶般若波羅蜜を読経させる詔勅を出し、宝亀7年(776)5月大祓会を行っているのは、災変がしばしば現れたためであろう。延暦元年(782)には伊勢大神および諸神が祟りをしているから神祇崇拝を奨励すべしと神祇官陰陽寮が要請してきた。平城京の放棄、長岡京への遷都は切羽詰まった状況の結果であって、ともかく疫癘の地からの脱出を計ったことが分かる。


 少し子葉末節に入って行きますが、
⑤鑑真失明の原因は白内障か、緑内障か。白内障の手術はすでにアラビア眼科学が獲得していた技術で、鑑真の失明はこのアラビア針刺術によるもの。白内障だったが手術後化膿したか、緑内障だったので手術に失敗したかのどちらかだろう。
薬師寺の僧行信は厭魅の術を行った廉で島流しにあった。現在斑鳩の夢殿のなかに安置されている行信像は何とも不気味な相貌をしており、その生涯の暗い翳りと妖奇とをみごとに表出した彫刻である。→ぜひ見てみたい。
聖武帝は晩年中国の皇帝のように丹薬愛用者となり、その病弱性を速めたのではないだろうか。


 この本は、結局年代的には平安初期頃までしか筆が進んでいないので、この後『大仏再興』という本を書いたようです。