:杉山二郎『大仏建立』


杉山二郎『大仏建立』(学生社 1986年)


 杉山二郎の本は、骨組よりも枝葉の記述に面白味があり、どんどん話が広がって興味が尽きないところがあります。この本でも、冒頭、自らの学業に対する内省的な文章が連綿と続き、なかなか本題に入りません。問題意識が強く好奇心旺盛な人のようで、内心を吐露するような文章は肉声が聞えるようで引込まれてしまいます。

 この本は、奈良時代に大仏が建てられるまでの経緯を追ったものですが、仏教の流れのみならず、政治や国際関係、物流、技術開発など、社会全体の流れから考えようとするスケールの大きさ、大局観があります。その骨子は次のようなものです。
①大仏建立は、倭の五王時代の古墳造営の流れの上にあること。ひとつは富の蕩尽という点。もうひとつは古墳造営の技術者たちが仏教の火葬が流入したことで職を失いつつあったが、それがシフトできたこと。
②大仏建立には、帰化系氏族が大きく関与していること。上記の古墳造営技術者、また新技術を身につけた鋳物師たちは中国、朝鮮からの帰化人からなっていた。また渡来した僧たちは宗教家というよりもその博物学的知識により、明治新政府のお雇い外人のような役割を果した。大仏造立の中心人物良弁も帰化系氏族出身。
役小角を祖とする修験者たちは博物学的知識や技術を習得しており、植物においては材木・杣場の発見開発、薬草の採集であり、鉱物では、銅・金・銀・鉄などの発見採掘を意味し、大仏を造立するにはうってつけの資源開発の情報センターとして機能していた。
④なぜ奈良北辺東側の地が選ばれたか。遷都誘致を計画した張本人がこの奈良北辺部を領地としていた藤原氏であり、さらに物流から考えると、大阪湾―大和川、初瀬川―大和川ルートよりも、大阪湾―淀川―木津川、琵琶湖―宇治川―木津川のルートのほうがパイプが太かったこと。また下京はひどい湿潤地帯だった。
聖武天皇が廬舎那仏の宗教思想的意味を理解していたとは思われない。ただ従来の仏像では満足できなくなった事情があった。それは疫病流行で、まるで長屋王の怨霊が報復しているかのように藤原氏一族の重鎮がすべて犠牲となった。しかし、これは大陸との通商交易が盛んとなったのに検疫制度がなかったことで当然生ずるものであった。
⑥大仏は、視聴覚的におおげさに訴える呪術儀礼の道具だてとして、また富の消費放出の形で怨霊に立ち向うためのものであった。大赦や造寺造仏といった形あるもので効果を期待し安心立命した。
東大寺盧舎那大仏こそ、バーミアンの大石仏、敦煌の南北大仏、龍門山中央の盧舎那大石仏像と、はるか西アジアに源を発し東漸してきた大仏の道の終着点の記念すべき作品であった。
⑧巨大なものの造営が、戦争の消費と似た形態をとる贅沢なエネルギーの放散であればあるだけ、その創造の営みは叡智の進歩と豪華さを約束する。万国博覧会(執筆当時開催されていた)も同じような行動様態である。

 大仏ができる直前に、聖武天皇が遷都を画策して、紫香楽宮、恭仁宮、難波宮平城京の間を右往左往する様子が克明に描かれていました。大仏もいったん紫香楽宮で造られ、解体されて今のところに運ばれたようです。大仏ができた後しばらくして、あっさりと平城京を棄てて、平安京に移ってしまうのを見ても、当時の都の落ち着きのなさに唖然としてしまいます。


 枝葉の部分で面白かった記述。
①職業としてのガイドが出現するのは明治になってからだが、かなり昔から、寺院の日常生活をきりもりする堂衆が南都の古寺社めぐりの案内をしていた。
南方熊楠が『大蔵経』を百科全書として読破し索引を作成して利用していた。同様にアラビアンナイトイスラーム百科全書とみなし索引を作っていた。
原始仏教は自由と階級的平等を大切にし帝王に対し僧や尼は礼拝しなかったが、後にインドにおいてすら破られ、中国では六朝以後はまったく権力者に寄生し奉仕する国家仏教的な在り方となってしまった。
④大般若波羅密多経を梵語の音訳漢字によりひたすら読み上げていたのは、音声の抑揚や不可思議なリズムのなかに、呪術効果が期待されていたからで、密教が伝来する前に、密教的なお経の読み方がなされていたこと。
行基に対しては、養老六年(722)には朝廷が「みだりに罪福を説き百姓を惑わせる乞食集団」と呼び禁圧の対象としていたが、天平三年(731)には「行基法師」と呼び行基の弟子たちを正式な僧侶として認定している。行基の利用価値を朝廷側がはっきり認識しはじめたということ。


 白村江の戦いでは、27000人もの征討新羅軍が日本から出兵したこと、敗戦後、地方植民地政権がGHQのように大和朝廷の上に君臨したらしきこと、そして百済の滅亡により、毎回何千人単位で流民・難民が日本にやってきたことなども知りました。この時期が日本でいちばん難民を受け入れた時期ではないでしょうか。