李家正文の本二冊

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李家正文『異国思想の伝来と日本の宗教』(泰流社 1988年)
李家正文『史伝開眼―東アジアのカーテンを開く』(泰流社 1993年)


 道教の日本への影響に関連して、本棚にあった李家正文の本を二冊引っ張り出してみました。『異国思想の伝来と日本の宗教』のほうは、仏教、道教儒教が日本にどう伝わったかについてのまとまった論考です。そのついでに、古代中国に材を取りながら、独立したいくつかのテーマについての随筆が収められた『史伝開眼』も読んでみました。


 『異国思想の伝来と日本の宗教』では、最初の二つの章で、日本に仏教がどのように伝わりどんな形で広まったかが語られていますが、日本に伝わる以前、中国がインドから仏教をどう受容していったかや、その後の中国国内での仏教弾圧の苦難の歴史にも言及がありました。次の一章では、神道に対して中国の影響がどうだったかを、仏教の影響を受けて本地垂迹説が生まれたいきさつ、修験道七福神などの信仰、神社の建築などについて考究。道教についても一章を設け、中国での道教の歴史と日本への伝来について叙述しており、日本では宮廷から民間行事まで幅広く道教の影響を受けていることを指摘しています。最後の一章で、儒教についても簡単に触れられていました。

 いくつかの印象的な指摘を記しておきますと、
①中国がインドから仏教を受容する際たいへんな苦労があったこと。インドのアショーカ王(前3世紀頃)やカニシカ王(世紀の初め頃?)が仏教の国外布教に熱心だったが、中国の僧たちは仏典を求めてインドまで難路を旅した。4世紀には法顕が慧景ら十余人とともに、6世紀初頭には宋雲が、そして7世紀前半有名な玄奘が砂漠を越えた。義浄は7世紀後半にスマトラから南海路を通りガンジス河口から上陸したとのこと。一方インド僧も、8世紀前半、善無畏が長安に来て、金剛、胎蔵の二つの曼陀羅の秘法を伝えたという。

②中国で仏教が簡単に布教されたわけではない。というのは、古代から儒教道教があり、新来の異教に対して民衆にも抵抗があった。歴代の皇帝のなかでも、南北朝時代の宋の文帝が仏教禁止令を出しているし、北魏の太武帝は仏像仏画を破壊する仏教弾圧、北周武帝儒教以外は認めなかった。唐の武宗はマニ教景教、仏教と次々弾圧した。

③日本でも、仏教受容の初期には、仏像が2回も捨てられたことがある。百済から献上された仏像を蘇我稲目が祀ったがまもなく疫病がはびこったので、物部尾輿らが難波の堀江に流し棄て、次に、鹿深の臣が百済から持ち帰った仏像を蘇我馬子がもらい受け仏殿を作ったが、疫病が流行したので、物部弓削らが仏殿を焼き仏像をまた難波の堀江に棄てた。しかし天皇がにわかに痘瘡で亡くなったので、仏殿を焼いた祟りとされた。

奈良時代の僧侶の数の多さ。624年には46寺、僧816人、尼569人あわせて1385人が居て、彼らを統率するために、百済僧観勒を僧正にしたとの記述があり、また752年の大仏開眼の儀には、10026人の僧が請ぜられたと書いてあった。

⑤昔にも合理的な考えを持った人が居たこと。後漢光武帝のころ(1世紀前半)、王充という人がいて、世間にはびこっていた方位、俗信、骨相、物忌みなどの迷信、緯書、易の卜占などが、どんなにでたらめなものかということを徹底的に論難しているとのこと。著書『論衡』が東洋文庫に入っているのでまた読んでみたい。

儒教関連では、二つほど。孔子は天道とか鬼神とか現実から遊離したことは語らなかったので、中国古来の信仰である易は道教や仏教に独占されていた。朱子はこれを儒教に取り戻すために朱子学を作ったということ。また日本では、儒学儒教が江戸時代に盛大になったため仏僧や国学者とのあいだで論争が起こっていること。ついでに、面白い話があったので紹介しておくと、『列子』の「仲尼篇」に、孔子が西の方に聖人が居て、世は乱れず信を集めているが、その人は仏陀と言うと書いてあるという。しかし時代が合わない可能性が高く、『列子』は偽書だという説もあるそうだ。


『史伝開眼』は、『異国思想の伝来』に比べると読みにくい。見たことのないような漢字が多く出てくるせいもありましたが、細かい話が多く、原資料に近いものが羅列されているのが原因かも。テーマについても、水運などあまり興味の湧かない話だったせいもあります。

①この本でも相撲の話題。インドにも相撲のようなものがあった。ブッダが若いころ、父の浄飯王の弟の白飯王と提婆達多摩那大臣とが角力をしたことが『法華経』にあるそうだ。中国では、神話時代に蚩尤という頭に角が生え赤い霧の息を吐く男がいて後に黄帝となる軒轅と闘ったという故事にちなみ、秦の時代に、頭に角形を着けた蚩尤役と軒轅役の二人が頭を突き合わせる遊戯、角抵戯が生まれた。これが後の角力(すもう)になったようだ。女相撲についても記述が多く、三国の呉の宮廷にはすでにあったこと。モンゴルの王族にアイゾンルクという女力士がいて、相撲で負けたら嫁になると言って、つぎつぎに男たちを投げ倒したこと。日本では雄略天皇の時代に、采女を呼び集めて褌だけにして女相撲をさせたこと。江戸時代には芝神明社、名古屋柳薬師、大坂難波新地などで女相撲の興行があったこと。

②川についてはかなりのページが割かれていた。黄河はその名のとおり黄色いが、たまに澄むこともあり、赤くなることも黒くなることもあること。黄河が氾濫を繰り返し毎年大量の土砂を運び地形を変えていくのに対し、長江は昔とほとんど変わらぬおとなしい川であること。歴代皇帝は、運河を造ったり、灌漑をしたり、また城を攻め落とすのに川の水を溢れさせたりしていること。運河は、秦の始皇帝の作った靈渠にはじまり、隋の煬帝黄河と長江を結ぶ運河を作り、洛陽を東都として建設し、富商数万家を移住させたりしたこと。また同時に北に伸びる運河も作ったことなど。広い中国なので、河の利用が重要な決め手になったのだと思う。

③中国では、父や帝の名前を憚って、その名前と同じ字を避ける避諱(ひき)の風習が見られ、唐の時代には帝が李姓で同じ音だったため鯉(り)を釣ってもすぐ川に戻さないといけないとか、清朝では康熙帝玄曄と重複しないようにすべての玄の字を元に置き換えたりなど、エスカレートして害を及ぼしている。避諱の方法としては実名の字画の最終の一画を省略したり(缺画)、文中にその字を空白にするなどもあった。日本でも影響を受け、源の義経は三位中将良経と同名であったために義行と改めさせられたり、姓名だけでなく郡名にまで及んだり、例えば「世仁」という名前を憚って「世人」と書いて「よのひと」また「よびと」と濁らせるなど読み方を変える方法(偏諱)もあったが、総じて中国よりゆるやかで、そのうち天皇の名前や年号をわざと使うことにまでなった。また日本がかつて邪馬台国と名づけられたのは、文字を知らない匈奴に対して悪い文字をわざとつけるのと同様、不正、悪、邪ま、偽りを意味する耶の字をつけられたということであり、耶魔堆(悪魔のうずたかい土塊)という文字さえあったというから、喜んでばかりはいられない。