長谷川正海『日本庭園雑考』

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長谷川正海『日本庭園雑考―庭と思想』(東洋文化社 1983年)


 これで庭の本はいったん終わりにします。著者略歴を見れば医学の教授とあり、趣味が高じて庭の研究に打ち込まれたみたいですが、相当熱心に調べていて、庭の研究者としても十分やっていけそうに思えます。あちこちの雑誌に発表したものや講演記録を集めたものらしく、重複した記述が多いですが、何度も読んでいるうちに理解が深まっていくので、良しとしましょう。

 この本の特徴は、ページの半分以上を割いて、作庭と古代日本からの思想や宗教との関連について著述しているところで、日本思想史といった趣きもあります。これまで読んだ本でも、宗教や思想に言及したものは幾つかありましが、正面から論じてはいませんでした。残り半分の話題としては、庭園の見方の入門的なガイドや、寺院庭園、京都の庭園、義政・相阿弥・小堀遠州の個別の庭についてなど。明治生まれの方だけあって、漢字が多く、若干読みづらい。

 庭に関していくつか強く主張されているところを順不同にピックアップしてテキトーに要約しますと、
①『作庭記』に代表されるように、日本庭園を自然景観の縮景的写景とする説が多いが、実は日本庭園は、須弥山庭園や蓬莱庭園として登場した。須弥山思想、神仙思想、道教思想、浄土思想、禅思想等が盛衰を繰り返して、これに即応した庭園の様式が興亡を重ねてきたのである。

②日本庭園は写意的な意匠を、写実的な自然景観的表現技法によって作庭するところに特色がある。何故写意的な表象の手段として、写景的手法を選択したかは、日本の民族に根深く自然志向があるからだろう。

③『記紀』の神話には、水平表象の「神池」と垂直表象の「岩座」がある。神池は海洋渡来民族の歴史表象で、妣なる国への思慕を託した常世国表象とも言え、また岩座は降臨神の依代わる場の造形で、垂直的神表象の理念的産物であり、それぞれの形象は後年の池泉庭と石組に伝承されている。

奈良時代の仏教寺院庭園は、直接的には仏教と関係のない道教を背景思想とする移入庭園であった。平安時代になって、浄土庭園が誕生した時点で初めて寺院と庭園とは、仏性と必然的な連帯で結びついた。

⑤東山殿の三阿弥、即ち能阿弥・芸阿弥・相阿弥の三者の本業は、東山殿の「唐物奉行」で、渡来物の鑑識・記録・修理・保管・出納の役を担っていた。竜安寺などの名庭を造ったと言われている相阿弥は茶や水墨画はよくしたが、当時の記録には作庭家としては出てこない。龍安寺の庭には、おそらく作庭家善阿弥の子らが関与したと思われるが、後世の人たちが、阿弥の代表格である相阿弥に、その功績をまとめたのではないか。

⑥庭園を見る時は、感覚の楽しみのためだけに見るのでなく、その庭園が成り立っている背景をよく知ったうえで、その庭の語りかける声を聴き、庭の心と自分の心を通じさせるという心構えで庭を見なければいけない。

 その他の話題として面白かったのは、
①原始の時代には死霊は恐怖の対象であり、屍は穢れの最たるものであった。やがて「カミ」観念の発展とともに、死霊は祖霊段階を経て祖神となり、それに連動して屍の汚穢意識も減り、とくに火葬が仏教伝来とともに広まり(700年僧道昭の荼毘が最初)、浄化が観念づけられることになった。

②日本の原始神道である神祇信仰は、形而上学的な教理ではなく、呪術的シャーマニズムによるものであっただろう。仏と神との出合いは、原始的な呪術性を接点として進展したに違いない。神仏両教に共通の多神教性があり、本来的に寛容であったため、習合がより容易に進められた。さらに道教的要素も入り交じって収斂融合していった。

③『記紀』をはじめ常世国を黄泉国と同一視している説は多い。仏教では現世を穢土と見て現世を否定し浄土彼岸を無限遠にあるものとしているが、常世国の黄泉世界の場合は、現世と次元的に等しくヨモツヒラサカを境にして道が続いていたり、常世国の波が現世の伊勢の海に打ち寄せるなど、平面的延長として意識されていた。

道教常世思想は容易に習合し、多くの文献で常世思想は神仙思想の形で表象されるようになった。吉野の舞姫常世国の乙女子になぞらえたり、羽衣物語には仙女が登場したり、山幸彦や浦島の海の宮居には仙境意識が見られるなどである。この常世国は明るい好ましい世界像として描かれている。

⑤時間意識が始まったのは、昼夜の交替、四季の変化の経験からだが、農耕によりさらに明確な時間意識が芽生えた。この永遠回帰の循環的持続が、おそらく仏教を淵源とする、無限過去と無限未来が直進的に続く時間的永遠と結びつき、さらに空間的な永遠性も裏づけされた。それが常世国である。