福永光司『道教と古代日本』

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福永光司道教と古代日本』(人文書院 1987年)


 このところ読んだ『数の文化史を歩く』や『日本史を彩る道教の謎』によく引用されていた本。肝心な説はだいたい読んだことのある話が多かったので、読む順序が逆だったと反省しております。それと、あちこちで講演した記録や雑誌に掲載されたのをまとめたものなので、重複が多いのが難点。

 これまでになかった話としては(と思うが見過ごしていただけかもしれない)、
①古代日本と中国江南地方(呉)の密接な関係が語られていた。応神天皇の時代に、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つがのおみ)という二人の朝鮮系人物を呉に派遣して、四人の縫工女(きぬぬいひめ)を日本に呼んで、織物の技術を導入したとのこと。その他、呉からは鏡や、刀鍛冶の技術も導入。著者は実際に南の中国に行って、子どもの背負い方から田植えの仕方、祭りの笛や太鼓の鳴らし方、神楽の舞い方などが日本とよく似ており、宇治か嵯峨野あたりを歩いている印象を受けたという。

道教の歴史についての記述。古くからある江南地方のシャーマニズムを基盤に、呉の葛玄が陰陽五行の「易」と『老子』の「玄」の哲学を導入して、3世紀頃道教の神学を形成したこと。流派としては、葛玄から葛洪に受け継がれた金丹を重視する洞玄霊宝派、その後、東晋時代に楊羲、許謐を中心とする神のお告げを重視する上清派茅山道教があり、この二つを統合し、さらに、後の大平道の宗教一揆五斗米道につながる山東地方のシャーマニズムの斉巫の理論も取り込んで、5世紀頃、陸修静が教理を整備し、陶弘景がそれを完成させた。教典としては、6世紀後半の『無上秘要』(100巻中68巻残存)、11世紀前半の『雲笈七籤』(120巻)、15世紀半ばの『正統道蔵』(5485巻)がある。ちなみに、現在の中国の道教は、古く正統的な正一派と宗教改革で誕生した全真派の二つに分かれるとのこと。

道教の多面的な様相への言及があった。ひとつは、仙術の具体的な手法で、一が呼吸法、二が太極拳につながる導引、三が服薬、四が房中術ということ。ふたつめは、道教社会福祉的な側面で、古くから「義舎」という無料宿泊所を運営していて、「共同」とか「連帯」を重んじていたこと。近代中国社会の秘密結社、青帮(ちんばん)や紅帮(ほんばん)の「帮」も道教のそういった思想と関連している。

④渡来人についての記述がたくさん見られた。595年に渡来して、仏教を広めた百済の僧恵聡、602年に渡来して、暦本、天文地理の書、遁甲方術の書を献上した百済の僧観勒、聖徳太子の仏教学や学術の師だった高麗の僧恵慈、小野妹古の孫小野毛野とともに遣新羅使に任命された伊吉博徳(いきのはかとこ)、また著者の郷里の宇佐には新羅系の人たちがたくさん渡来して、香春岳の麓の河原に住み、採銅・造鏡の技術を伝えたらしい。そこから、八幡大神というのは中国大陸から来た神で、金属器と水稲稲作に代表される弥生式文化の守護神ではないかとしている。

 中国の昔の歴史書には「日本人が中国にやってくると、彼らは口をそろえて、われわれはお国の太伯という王様の子孫であると言う」(p51)と書いてあると指摘したり、「不幸なことに・・・日清戦争で日本が勝ちますと、いよいよ中国を侮蔑する考え方が強くなって・・・中国人を・・・チャンコロとか呼ぶようになりますが、チャンコロというのは中国人を中国音で読むと、チョンクオレンになるので、それがチャンコロに訛った・・・もともとは軽蔑する意味などなかった」(p53)という記述を読むと、これはまったく私の勝手な想像ですが、著者は、戦前(1918年)生まれなので、戦争に導いた国学的思想への反感がどこかにあって、彼らの崇める古代日本も結局は中国にルーツがあるという説に向かわせているような気がします。

 しかし、中国にルーツがあると指摘することだけに終わってしまえば、日本がオリジナルだと讃美するのと同じ落とし穴にはまってしまうように思えます。史実をできる限り具体的に調べ、なぜそうした影響を受けることになったのか、何が元からあり、影響や融合によって何が新しく生まれたか、影響を受けずに残ったのは何かなど、いろいろと相互の関係で探究すべきことが多いように考えます。