李家正文『古代東アジアに遡る』

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李家正文『古代東アジアに遡る』(泰流社 1987年)


 引き続き李家正文を読みました。前に読んだ『史伝開眼』と同じく、いくつかのテーマを並列に論じたもので、古代東アジアで腰帯にぶらさげていたもの、仏具が金色な訳、異国の花嫁、去勢された男性の実態、名前がどうつけられたか、古代の狩猟などがテーマとなっています。昔の文献資料を幅広く渉猟していて、感心してしまいます。


 いくつか面白い話題がありましたので、少し誤解している部分があるかもしれませんが、ご紹介しておきます。
①古代人は腰帯にいろんなものをぶらさげていたが、その起源は中国に遡り、袋の中にそろばんや小刀、磨き石など身の回りの品を入れていたようである。唐の時代は魚の形をした袋の中に符契(身分証明証のようなもの)を入れていた。魚の形は亀の形になったり魚に戻ったりしたが、ずっと続いた。同様の物が新羅でも発見されているし、日本でも聖徳太子肖像画にも描かれ、官職にある者に対して衣服令で魚袋を付けるよう定められていた。形は鯉もあれば鮒も鯛もあるとのこと。この伝統が後世の印籠、腰巾着、煙草のきせる袋、ひいては女子のポシェットなどに受け継がれていると著者は想像している(「黄金のベルトと腰佩の魚」より)。

②西洋では、食事用のフォークは11世紀に使われた記録が最古であるが、中国の周(前11世紀-前771年)と春秋時代(前770年-前476年)の古墳から、骨製のフォークが大量に見つかっているので、磁石や絹、紙、扇などと同様、中国から西方に伝わったのではないか(「黄金のベルトと腰佩の魚」より)。

③寺では、仏像に始まり、仏具や格天井に至るまで金色に塗られているが、『大智度論』の仏陀の三十二相のなかで、仏陀の身が金色に輝いていたというのに基づくという。漢の時代に、軍隊が匈奴の地に行ったときに、匈奴の王が金人を祭っており、金人を獲物として持ち帰ったのが仏像が中国に来た初めとされている。釈迦牟尼の出自であるサカ族は黄金をふんだんに使っていたので、北方の習俗に対する郷愁があったのではないかと指摘している(「仏像仏具はなぜ黄金色か」)。→スキタイ文化は黄金文化と言われるが、関係があるのかも知れない。

④古代の異民族間の婚姻について事例が紹介されていた。中国の王たちは娘を匈奴などの異族に嫁がせて和親を促進する政略結婚的な動きをしていた。一方、異族から中国に嫁いだ女性もいて、どんな民族か私の知らないのもあるが、鮮卑、西域曹国(クバーディアン)、ウィグル、ペルシアなどが挙げられていた。日本でも、562年、高句麗を攻めたとき、二人の女性を連れ帰って、蘇我の稲目が妻にし、また秀吉の文禄の役の際、多くの朝鮮両班(ヤンパン)の子女を連れて帰って侍女にしたり、そのなかには妻となったのもいる(「異国人の花嫁たち」)。

⑤宦官は、悪さをした罰としてだけでなく、幼いころから宮廷で働かせるために去勢されたというから、権力の恐ろしさを知らされたと同時に、その数の多さに驚いた。3000人から、多いときは13000人ぐらいいたという説や、10万人という説もあるそうだ(「去勢された男ども」)。

⑥もともと古代中国では、姓は女扁の文字が示すように、母系中心の時代にあって他の族と区別するためのものであったという。その後は、帝王から賜るものとなり、必ずしも子孫がそれを受け継ぐとは限らなかったようだ。姓の付け方は、生まれたところか、いま住んでいる地か、あるいは国号、官爵などで称せられた。中国のこの賜姓の風習が日本に伝来して、天皇は歴代にわたって姓を賜ったが、中国の皇帝が姓を持っていたのに対して、日本の天皇には姓がない(「賜姓考」)。

⑦万葉仮名は日本オリジナルのものと思っていたが、すでに、新羅に同じような考え方に基づく郷札(ヒャンチャル)というのがあることを知った。一字一音の韓音に漢字を当てて韓国の言葉を表現したらしい(「賜姓考」)。

⑧古代の狩猟について、狩猟を歌った詩を引用しながら叙述している。当初は祭祀のための狩猟で、そのお下がりを来賓とともに食べるだけだったが、次第に大がかりな遊興のための狩猟に変移して行ったこと。漢の時代には、熊、大猪、虎、豹、狐、鹿などを捕らえ、檻に入れて射熊館という動物園のようなところに運んでいたこと。契丹系の遼、女真系の金、蒙古系の元など、もともと北方の狩猟遊牧民の出自を持つ皇帝は、郷愁に誘われてなかなか狩猟を止めることができなかったこと。日本でも、平群の山で鹿を狩ったりしていたことが『万葉集』に出ているが、仏教の伝来によって殺生が忌まれたので、山野に遊んで草を採るようになったとも(「中国の畋(でん)猟と暴虐」)。


 古代の東アジアについての該博かつ詳細な知識が披露されていますが、ところどころ個人的感情が迸るところが親しみを感じるところ。「墨染や黄衣が、日本に渡ると多彩で豪華な法衣に変わって行った・・・紫や赤などは日本の高僧だけの権威の衣裳でしかない」(p52)と吐き捨てるように書いているのは、どうやら、日本の仏教界に対して、本来の仏教から外れていることをよく思っていないふしが見られます。また、姓の話のところで、自分の名前の「李家」のルーツを求めて若いころから調べていたようで、年老いてから唐の李氏の系譜が偽系図ではないかと気づき、他の資料の裏付けを得るきっかけとなったということです。


 これで、道教や古代中国・日本関連の本は最後で、次回からは、建築関連のテーマに移ります。