建築に関する本二冊

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上田篤『日本人の心と建築の歴史』(鹿島出版会 2006年)
岡野忠幸『建築古事記』(東京美術 1973年)


 先日読んだ李家正文の『異国思想の伝来と日本の宗教』のなかにあった神社など日本の建物についての記述が面白く興味が湧いたので、日本建築に関連した本を読んでみました。この2冊は同じ建築を扱いながら、性格がまるで違っています。大雑把に言ってしまうと、上田篤の本は、建築史というより仏教を中心とした宗教史で、岡野忠幸の本は、建築のパーツにまつわる蘊蓄を開示した本。


 上田篤の本は、著者の個人的な資質が多分にあると思いますが、哲学的といってもいいような探求心が根底にあり、知識を網羅するだけの学問とは一線を画しています。数少ない事実をもとに、それらを繋げ推理することで、過去の日本の姿を思い描くところは、(実はあまり読んでませんが)梅原猛に似ているのではないでしょうか。推理が飛躍してとんでもない(と私には思われる)世界を描くあたりは一種の奇書と言えるでしょう。

 疑問を持ちそれを解明しようとすることが大切と力説し、それを自らも実践して次のような説を展開しています。
縄文人たちはなぜ建物全体が屋根と言ってもいいほど気密性の高い竪穴住居に住んだのか。それはその住居のなかで土器をとろ火にかけて、物が何日も腐らないようにしようとしたからだ。そのため土器に縄のもつ呪力を写し取ろうとして、縄文土器が誕生したのではなかったか。

縄文人は食料用の動物、ブタやニワトリの飼育をおこなわなかった。卵でさえ日本人が食べるようになったのは江戸時代になってからだ。なぜか。それは、縄文人にとって食べることは、空腹をみたすためだけのものではなく、野生動物のもつ生命力を身につけることだったからだ。

③日本の住居はなぜ床が高いのか。高床式住居の起原は弥生時代の稲倉にある。弥生時代に稲と鉄がセットで入ってきたことにより、本格的稲作が始まり、稲の保管にはそれまでの湿気のある竪穴式建物は適さなかったので高床にしたのだ。そしてそれが一般の住居として広まっていった。

高天原はどこにあったのか。高天原八百万の神々には二系統あり、天照(アマテラス)と高木の神(タカギノカミ)である。高木の神の系統は一大水軍であり巨木文化をもっていた。関東、東北、北陸地方にかけて巨木文化があったことが分かっており、北陸地方は巨木が生育する古来からの重要な造船地帯であった。かつての日本海には潟が無数にありそこに海の国が形成されたと思われる。ところが2300年から1800年前にかけて地球が寒冷化した時期があり、彼らが南下して九州各地に点在していき、2世紀の終わり頃に瀬戸内海を通って畿内に侵入し、大和を制覇したのである。

五重塔はなぜ倒れないのか。地震への対処法として、中央に心柱を置くという日本独自の工法を見出したから。それにより塔自体が一本の柱のようになって仰ぎ見られる存在となった。これはかつての日本の巨木信仰のあらわれではないか。

 日本仏教の見取り図を次のように描いていました。
⑥仏教が日本に入ってきた初めのころは、百済仏教の直輸入で、渡来僧たちでかためられ、寺は貴族や有力豪族が集まる鹿鳴館のようなものだった。聖徳太子は僧になることより修行を大事にし、その修行主義が最澄らに引き継がれていった。当時、仏教界には三つの勢力があって、奈良時代の南都の寺は戦前の帝国大学のようなもので一般民衆の近づくことのできないもの、平安時代天台宗の叡山は貧しくても志を持つ若者の集まる塾、一方、真言宗の東寺や高野山は下級貴族にも門が開かれた劇場のようなもの、この三者鼎立時代の仏教界の目標は国家鎮護ということにあった。しかし、荘園領主となった寺は僧兵を抱え、時の政府と衝突するようになり、国家鎮護の場だった叡山は国家呪詛の場に変わってしまった。空海は天才で最澄は愚の人だったが、空海真言宗からは有力な後継者はほとんど育たず、逆に最澄は悟りの制度をつくることで、その後の仏教界の重鎮を続々と輩出させたとも。

 明治以降の学問のあり方については、次のように嘆いています。
⑦安藤昌益の哲学、三浦梅園の論理学、本居宣長国学伊能忠敬の測量術など、古くからあった日本の学問芸術などのおおくが省みられなくなった。小中高校では和歌や俳句の作り方すら教えられていないし、江戸時代の音楽も、絵画も、陶磁器、漆器、染織、木工などの伝統工芸も学校教育から姿を消した。大学の建築関係学科でも、日本の伝統木造建築技術はほとんど教えられていない。

 細かいところでいろいろと面白いことを知ることができました。例えば、古代人は月夜の晩に恋をしていたこと、6300年前に九州の南端で起きた火山大爆発によって九州一帯が長らく無人地帯と化していたこと、むかし奈良盆地には大和湖というのがあり8世紀の初めごろまでは湖の形が残っていたこと、『後漢書東夷伝』という書に倭の「国には女子おおく、大人はみな四・五妻あり」と出ていること、古代の天皇や皇太子が病弱で早々と世を去ってしまった原因は度かさなる血族結婚ではないかということ、空海長安景教キリスト教)にも接しイエスの奇跡も研究したのではと言われていること。


 一方、『建築古事記』のほうは、文章に軽妙な味があります。下(しも)の話になるとそれがいかんなく発揮されているようです。
近畿地方一帯は、一年間のうち大部分の風向が東北から西南に流れている。鬼門には便所を造るなという教えも、開放的な日本住宅では、ささやかながら科学的であり、経験からの指針であったのだろう。

②古い時代では庶民の住まいには便所という定まった施設がなく、一定の不浄な場所で、決められた日時に集団で共同排便をするという俗習があったらしい。婦人にとっては、しゃがんでも腰下まわりを隠せる長い裾のゆったりとした着物が不可欠であったし、高下駄も男女共通の排便道具であった。

 真面目なのもあります。
③「納戸」と呼ばれている屋内の収納室は、その元をただせば「塗籠(ぬりごめ)」と呼ばれた平安時代寝殿造りにある寝室から出発しているが、当時から、密室の息苦しさから使われないことが多く、寝室兼用の収納室という位置づけであった。

④元来、松は神秘長久の象徴として山間信仰に親しまれてきたが、やがて観世座の能へと移向し、「松の御庭」の能舞台となった。上空に向かって立つ樹は神が宿り、地に這うように下がった枝は神が地上に降り立つための足場とみなされた。正月につきものの門松も、松の持つめでたい長久の神秘性に由来している。