朱 捷『においとひびき』

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朱 捷『においとひびき―日本と中国の美意識をたずねて』(白水社 2001年)


 引き続き香りについての本。今回は、中国人で日本在住の研究者が、日本の匂いと中国の響きに関する感じ方考え方の比較を行ったものです。来日して、「におい」に関する微妙な使い方の差に気づいた著者がフィールドワークや古典研究、語源研究を通じて、徐々にその深層を明らかにしていくという物語的な面白さもありました。文章は中国生まれの方が書いたとはまったく感じさせないこなれた日本語でとても読みやすい。

 論点のいくつかをまとめておきますと、
①日本では「匂うような美しさ」というように、嗅覚を視覚に転用した表現が見られるが、これは世界に例のない日本特有の表現である。万葉時代の「にほふ」は視覚の表現というのが定説であるが、嗅覚的表現もある。平安末期の国語辞書には、「光彩」という項目の下に、「香」などの嗅覚の語彙が22もあり、これは古代日本人にとって、嗅覚と視覚が渾然一体だったことを示している。

源氏物語では、人物評価をする際に「にほひ」が重要な役割を担っており、評価基準としては、「あて」(高貴)や「なまめく」(優美)よりもさらに一段上の価値を有するものとされている。そしてこの源氏物語に始まった美学が、新しい感覚として後続の文学作品に受け継がれていき、「にほひ」は古典文学の世界で人物批評のキーワードとなっていった。

③「匂」は和製漢字であり、その元となっている「匀」、「韵」はもともと「ひびき」のこと。ひびきは物事の余情を示すもので、同じ余情を日本人は「にほひ」で表現するため、「にほひ」の漢字表記に借用したらしい(岡本保孝氏の説)。しかし、「匀」では日本語の「にほひ」の嗅覚的側面が消えてしまうので、「匂」という和製漢字をわざわざ作ったのである。

④一方、中国では、花の美しさを表わすのに「韻」ということばを使う。これは中国人にとって聴覚がいかに格別であるかを示している。他にも中国語の「聞香」は、本来は音を聞く聴覚が香りを嗅ぐ嗅覚に転用されているもので、日本語の「にほひ」が視覚から嗅覚へ移行したのと似ている。中国では、人物評価をする際、「韻が無い」という表現があり、「におい」を基準にして人物評価を下していた源氏物語と対照的である。絵画を評する場合も、日本では「にほひすくなし」、中国では「気韻生動」と、日本人は「におい」、中国人は「ひびき」を評価基準としている。

⑤中国では、古来より、音楽に宇宙の本源的な調和を見て、音楽的美に対する憧憬が培われてきた。音楽的美への追求は、宇宙本体論など哲学談義や、究極的な人間性への追求と深く結びついていた。日本では、高貴さや上品さよりも、異性を惹きつける魅力の色香を重要視し、生命の色つやを求めるのに対し、中国では、精神の高尚さと色香は同列し難いものと考え、生命の霊的純粋さを求めた。


 その他、印象的な指摘があちこちにありました。
①「にほひ」の「に」の語源は「丹」で、水銀の原鉱石朱砂のこと。古代人は、焼いて分解したものがまた元にもどるという朱砂、水銀の特性に、青春をいつまでも続けさせる神秘的な力を感じとっていた。西洋においても、水銀は、
神秘的な物質で、輝きと内的生命力とを賦与する本質を秘めた奇蹟の物質であった。空海は朱砂を瞑想時の精神集中力を高めるため、また不老長寿のための妙薬として飲んでおり、高野山の奥之院が金銀銅水銀の鉱区だったという説があること。

②蕉風俳諧には、連句の際、ことばでも意味でも連関しないが、言外の匂いを聞き取ることによって、前句に句を付ける「匂いづけ」という技法がある。この「にほひ」すなわち余情を俳諧に取り入れたことは、蕉風俳諧の到達点のひとつである。

③中国の漢字の成り立ちを見れば、「和」の本字「龢」は吹奏楽器の形に由来し、音楽の「樂」という文字も本来「琴」の意味で、「木」の上に弦の「糸」があり、「白」は弦を調節するものであった。言語の「言」は本来「音」と同じ字で吹奏楽器の「簫」、「声」は打楽器の「磬」、「喜」は太鼓の「鼓」など、音声、喜悦をあらわす漢字は、すべて楽器の形をかたどっており、音楽から由来している。古代中国人にとって、楽器や音楽が、言語や美的感情の基礎でもあったのだ。

 人間形成に音楽を重んじた孔子の言葉、「六十にして耳順(したが)う」の説明があり、「耳に逆らうことばを聞いても、怒らないでいられるのは、老熟した人にかぎられる」(p187)とありました。もう七十にもなっているのに、怒ってばかりとは情けない。