会津八一に関する本二冊

  
宮川寅雄『秋艸道人随聞』(中公文庫 1982年)
小笠原忠編著『会津八一と奈良』(宝文館出版 1989年)


 10月下旬に、奈良日仏協会の催しで、会津八一の歌碑巡りをすることになりました。その予習を兼ねるのと、これまで奈良のお寺をまわるたびに会津八一の歌碑があって、どんな人だろうと興味を持っていたので、関連本を二冊読んでみました。

 宮川寅雄、小笠原忠ともに、会津八一が早稲田高等学院で英語を教えたときの教え子で、ともに会津八一に傾倒し、宮川寅雄は、共産主義活動を経て、東洋美術の教授となり、小笠原忠は、小説家となって、会津八一との思い出を小説化した作品で芥川賞候補になったようです。

 ともに、弟子の立場から師を仰ぎ見るといった感じが基調ですが、『秋艸道人随聞』は、客観的に会津八一の人生を辿る視点があり、評伝のかたちやテーマ別の切り口で、会津八一の世界を浮き彫りにしようとして、やや力の入った硬派な印象があるのに対し、『会津八一と奈良』は、会津八一の歌を紹介しながら、歌われた場所を著者が訪れ、その感想を述べた柔らかい随筆調の作品となっています。


 二冊を読んでの全体的な感想と、新しく知り得たことを記しておきます。
会津八一は、歌人であり、奈良を歌い、東洋美術が専門ということから、西洋とは疎遠と思っていたら、意外と、西洋的な素養が基礎にあることが分かった。若き日、坪内逍遥を通じて英文学への道を志し、ラフカディオ・ハーンの講義を聞いたり、アーヴィング、ギッシングの散文、キーツシェリーらの詩を愛した。卒業論文は「キーツ研究」らしい。

早稲田大学の同級生が錚々たるメンバーで、白柳秀湖生方敏郎、楠山正雄、野尻抱影、相馬御風、上級には、吉江孤雁、小川未明、窪田空穂、水野葉舟、一級下は秋田雨雀。同窓の多くがすでに文壇に登場していた。当時の大学生は数が少ない分、優秀な人材が集まり、若くして社会で活躍していたことが分かる。

③30歳前頃に、郷土史研究会というのに参加しているが、これがまた錚々たるメンバーで、新渡戸博士の家で、柳田国男鳥居龍蔵高木敏雄幸田成友らが集まっていたという。

④知的関心が幅広く、ルネサンス美術への関心、ヴェルギリウスを読んだり、エスペラント語の勉強もしている。また日本天文学会に参加するなど科学への興味もあり、飛鳥時代の忍冬文様を研究する際、実際に忍冬を栽培したりしている。

会津八一の学問的業績としては、一茶の日記帳を発見して「俳人一茶の生涯」という論文を発表したこと、また古代美術の分野では、法隆寺が再建されたものかどうかという論争にひとつの見解を与え、「法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究」で博士号を取ったこと。また、エピソードとして、法隆寺の壁画を切り取って安全な場所に保管しその跡に現代作家に絵を描いてもらえばいいと提唱し、反発を招いていたが、その後壁画が焼失して、会津の忠言が正しかったことが分かった。

⑥そのほかにも、書画の方面で、多彩な活動をしていて、書、画讃、篆刻水墨画に、油彩画まであるとのこと。


 と、いろいろ書きましたが、後世に残る業績として、重要なのはやはり歌だと思います。奈良の仏像や寺社、風景に着目してその魅力を歌ったこと、ひらがな表記で漢字の呪縛から日本語の音韻を解き放ったこと、平易な内容で分かりやすく愛唱されやすいこと、などが特徴でしょう。ひらがな表記については、当初『南京新唱』を発表したときは、漢字が少し交じっていましたが、『鹿鳴集』に採録された時点で、すべてひらがなとなり、さらに『会津八一全歌集』で、独特の区切り法を採用することになります。私の感覚では、最後に到達した品詞別分かち書きは、文法に偏り過ぎたあまり、音韻の自然な流れを阻害しているように感じられます。音韻を考えていちばんよい形は、助詞を上の品詞につなげた形だと思います。

 引用されている歌で、良いと思ったのを列挙しておきます。(上記の新区切り法で表記してみました)
かすがのに おしてるつきの ほがらかに / あきのゆふべと なりにけるかも

かすがのの みくさ おりしき ふす しかの / つのさへ さやに てるつくよかも

あきしぬの みてらをいでゝ かへりみる / いこまがたけに ひはおちむとす

くわんのんの しろきひたひに やうらくの / かげうごかして かぜわたるみゆ(以上『南京新唱』より)

ひそみきて たがうつかねぞ さよふけて / ほとけも ゆめに いりたまふころ(「観音堂」より)

ひびきなき サジタリアスの ゆみのをの / かどの かれきに かかる このごろ(後年の歌)