分身テーマの本二冊

  
坂井信夫『分身』(矢立出版 1985年)
ミヒャエル・エンデ丘沢静也訳『鏡のなかの鏡―迷宮』(岩波書店 1985年)


 分身テーマの本はこれが最後となります。二冊に共通するのは、詩的雰囲気でしょうか。『分身』は18篇の詩集であり、『鏡のなかの鏡』は、30篇の散文詩的な掌篇で構成されています。『鏡のなかの鏡』については、分身テーマに入るかと思って読んでみましたが、第16篇の自分の鏡像に向き合うという話以外は、直接分身を思わせるような場面はありませんでした。逆に、『分身』のほうは、詩ですが、自分のなかから分身が立ちあがって歩きだしたり、年齢の違う自分が登場したりする作品が大半を占め、分身アンソロジーには欠かせない詩集となっています。

 また、『分身』は、造本自体に分身テーマらしい工夫があり、表紙の「分身」の文字はいくつかにダブって印刷されていますし、扉の「分身」の文字は、鏡に映ったかのように反転されています。さらにこれはもしかして製本の間違いかも分かりませんが、本体の背表紙の「分身 坂井信夫詩集」の文字が上下反対に印刷されていました。

 坂井信夫については、昨年10月にこのブログで『影の年代記』と『レクイエム』を取りあげました。私の感性に近く触れてくる詩を書く人だと、この歳になって知りました。『分身』は、分身が登場するのはもちろん、幽霊らしきものが現われたり、壁から女が出てきたりと、怪異が描かれています。全篇一人称で語られ(9、11は「おれ」、18は「わたし」、それ以外は「ぼく」)、ほとんどすべてに酒が登場し(12だけなし)全体が朦朧とした雰囲気に包まれていることと、詩の途中に唄の歌詞が引用されている(2、5、15除く)のが特徴であり、また魅力。

 もう一つの特徴は、詩にしては一行が長いことで、適当に数えてみても、短いもので9~11音節、長いものは28~31音節もありますが、何かしらリズム感が感じられることです。それは語りの文体になっているからでしょう。最後の第18篇だけは散文詩で、一人称でありながら客観的な文体なので、そうしたリズム感は希薄ですが。

 分身の登場の仕方を少し引用してみますと、
分身1:するとぼくの中からなにかが立ちあがり/p10・・・闇のなかへ出ていく/ぼくはソファーに坐ったままそれを/眼のすみで追っているだけだ/p11・・・ぼくの中からなにかが脱けだして/眼を血ばしらせて闇のなかへ消えてゆく/p12・・・もはやわからないまま酔いがまわり/どっちがほんとうのおれだったのかと/p13

分身2:あれはおなじ男が少しずつ若くなったのだ//男とは逆に ぼくはだんだん老けこんでいき/p14
エッシャーの絵を思わせるような入れ替わり。

分身3:するとぼくの中からなにかが脱けだすと/扉をあけて夜のなかへ去っていく/p19

分身6:全身から力がながれだした感覚になり/眼をあげるとレントゲン写真のような魂が/扉にむかってゆっくり歩いていくのだ/p32

分身7:すると椅子に坐っているぼくの中から/やせこけた青年がたちあがり/p34

分身9:おまえのかわりに飲んでるから安心しな/ついでにこの女もいっしょに連れていくぜ/p41

分身12:ぼくの中から大人びた少年がたちあがり/p49

分身17:いつのまにかぼくのなかから分身が…いや/ぼく自身がたちあがって玄関のほうへ/女にみちびかれるまま歩きだしているのだ/p70

分身18:きょうはわたしが埋葬される日だ/p71


 さらにもう一つの特徴は、詩の終わり方が、失神、無力感、絶望、病変に彩られていることで、これが何とも言えず好きなところ。
分身1:そのまま眠りこんでしまった/p13

分身3:ちらっと視たとたん ぼくは気を失っていた/p22

分身4:煙草に火をつけた瞬間 はげしい痛みが/あたまの芯から表皮にむかって拡がりはじめた/p26

分身5:ぼくは少年にもたれかかったまま/玄関をすこしずつ汚しはじめていた/p30

分身7:やせこけた青年はひとかたまりの灰にかわり/ぼくは吐きけをこらえながら坐っている/p36

分身8:そう思った瞬間 じわっと寒気(さむけ)が/足もとから這いあがってくるのを感じた/p39

分身9:もういちどかかってくるのを待つような恰好で/玄関にそのままうずくまっていた/p42

分身13:はげしい吹雪がなだれこんで…ぼくは/雪まみれになって昏倒していた/p54

分身15:女はまっくろな活字にかわり/おびただしく足元に散乱していた/p61

分身18:そうしてわたしはいつまでも、かたちのない風となって宙をさまようことになるのだ/p75


 『鏡のなかの鏡』は、訳者によると、連作短編でひとつずつの話が鏡像となって前の話を映しだしているとのことですが、たしかに最後の短篇は最初の短篇につながっていますが、途中の短篇に関連があるとは思えませんでした。むしろ、どの短編も同じような性格を持っているという印象を持ちました。それは、どれもが観念的で、演劇的であるということです。星の王子様の会話を思わせるような少年と道路掃除夫のやりとりが一例ですが(p210)、全体的に読んでいて芝居を見ているような感じがあります。

 問題の分身テーマの作品は第16篇で、次のような話。文字だけからできている紳士が、女友達と市へ出かけ射的をするが、的がなんと自分の鏡像なのである。文字でできているため現実性に自信がなく撃てないでいると、女友達は肉屋の主人と一緒に去って行く。紳士は女の後を目で追いながらゆっくりと壊れはじめ、小文字と大文字の山となって大勢の人に踏みつけられてしまう。

 なかで、面白かった作品は、下記の4篇。この4篇でだいたいこの本全体の雰囲気が分かると思います。
第5篇:ソロの踊りを披露するため黒い幕のうしろのステージで待機している俳優。立脚と休脚を交差させ、右手を垂らし、左手を腰にあてがって、疲れてくると左右を入れ替えて待った。突然幕が上がるかもしれないと思いながら。しかしいつまでたっても幕が上がる気配がない。もしかしてみんな忘れて帰ってしまったのか、あるいはみんなに虐待されているのかと自問する。そのうち何度脚を組み替えたかも分からなくなり、ついになぜ待ってるかも分からなくないまま待ち続ける。カフカの短篇のような不条理感覚。

第22篇:世界のどこかに、自身の存在の謎を解く鍵となる印があると信じて、世界のあらゆる奇蹟と秘密を見てきた世界旅行者が、とある中国風の女郎屋の建物の前で、子どものような華奢な娘に呼び止められる。娘の案内で車に乗って建物のなかへ入ると、左右の壁の木目模様のなかにさまざまな動物や植物の形が見え、岩や石も三次元の立体となって奇怪な様相を呈してきて、次第に自分の内部と外部の境界が消えていくのを感じる。そして壁の無数の切れ目から山や湖や滝のミニチュアの風景が見えて…。イメージの洪水のような一篇。

第26篇:雨の降っている教室で、大人も混じった6人の生徒が傘をさして先生が来るのを待っている。教壇の前の机には少年が死んだように横たわっていた。傘を少年にかざすと少年は息を吹き返し、新しい物語を考えてみんなで芝居をすればここから脱出できると、黒板に舞台の絵を描き、その絵のなかに飛び込んで、みんなおいでと手招きした。次々と飛び込み、最後まで逡巡していた背広の男が降りてくる幕のすきまに飛び込むと、幕は閉じた。そして雨は黒板の絵をどんどん消していった。

第30篇:扉の前を二人の兵士が左右から交互に歩いて見張っている。だが、これまで誰も出てきたことはないし、入ろうとする者も居ない。王の命令であるがなぜ見張っているか分からない。そこへ王の娘が、若者と一緒に現われ、娘は若者に、あなたは英雄だから中に入ってみてと唆す。若者は何か持たしてくれるものを忘れてないかと問うと、糸玉はないと答える。これもカフカ的な作品で、ミノタウロスの迷宮のパロディ。

 エンデのお父さんは画家だったらしく、表紙画と18葉の版画が挿絵として使われています。絵が先にあって、そこから文章が綴られたのかも知れませんが、文章と同様不思議な世界が描かれていました。