『書物の王国11 分身』


東雅夫編『書物の王国11 分身』(国書刊行会 1999年)


 今回は、国書刊行会の『書物の王国』の一冊。このシリーズは、テーマ別のアンソロジーで、前にもこのシリーズの『夢』を取りあげたとき書いたように、読んだことのある作品も多いですが、未読の中に佳篇があり、手元に置いておくべきものだと思います。『分身』では、海外と日本を取り混ぜ22作品を収めています。

 感銘を受けた作品としては、何と言っても真っ先に、レニエ「対面」(志村信英訳)を挙げねばなりません。次に続くのは、ポオ「ウィリアム・ウィルスン」(江戸川乱歩訳)、ブリューソフ「鏡の中」(草鹿外吉訳)、パピーニ「泉水のなかの二つの顔」(河島英昭訳)の3作でしょうか。

 レニエの「対面」は、以前に、『Histoires incertaines(さだかならぬ話)』に収められているのを読みましたが(2015年12月25日記事)、日本語で読み直して、感激を新たにしました。この本の四分の一60頁以上を占めるヴォリュームのある中篇で、やはり日本語で読むと展開が早いので、物語全体がより明瞭に理解できます。何が凄いかというと、本筋の話に入る前に、ヴェニスへの愛が滔々と語られ、長期滞在の館を探す経緯が詳細に語られ、そのなかで、博物館からの小さな彫像の紛失に話が及び、それが物語の伏線となって、古びた館で起こる後半の怪異につながっていく、その話の盛り上げ方がきわめて巧みなことです。ここで下手な要約をするよりも、ぜひ本文にあたって、文章の豊饒さを味わってほしいと書いておきます。

 「ウィリアム・ウィルスン」は、分身に執拗につきまとわれる恐怖を描いた分身譚の古典的代表作。高校生の頃、河出書房の世界文学全集の松村達雄訳で読んだ時は衝撃でした。他にこれまで、改造社の世界大衆文学全集でこの江戸川乱歩訳、創元推理文庫阿部知二訳を読みましたが、江戸川乱歩訳が自然な口調で、すばらしい。

 ブリューソフ「鏡の中」は、白水社の短篇集『南十字星共和国』の中に入っているようですが、まだ読んでおりませんでした。鏡に映る自分は自分とは異なる存在だと感じている女性が、ガラスにわずかな傾斜のある鏡を買ったことをきっかけにして、狂気を増幅させていく話で、女性のモノローグによる巧みな話術で、鏡の中の自分に操られていく恐怖を描いています。

 パピーニ「泉水のなかの二つの顔」は、ボルヘス編集の「バベルの図書館」シリーズで、30年近く前に読んだことがあるようで、その際のコメントには、冒頭部分は素晴らしいが後半は今一つというようなことが書かれていました。かつて修行時代に、廃れた庭の泉水の傍らで、よく落ち葉を掻き分けて自分の顔を映していたと、懐かしさに駆られてその泉水を訪れると、そこで7年前の自分に出会うという設定が物語に引き込まれる要素となっています。


 それ以外には、偶然が重なりすぎるのが不自然ですが双子ゆえに起こる悲劇を描いたビアス「双子の一人」(奥田俊介訳)、短い話だからこそ不気味な怪異が際だつ陶淵明「離魂病」(岡本綺堂訳)、同じく自分が寝ているのを見る話ですが深夜の徘徊を音感を交えて饒舌に語り眼前に彷彿とさせる泉鏡花「星あかり」、ドッペルゲンガーが飛行機のレベルで生じる夢野久作「空中」、現代の団地生活の相似性を皮肉った山川方夫「お守り」、分身譚をはじめ幽霊話を自在に語る佐藤春夫「首くくりの部屋」、これも自在なエッセイで鏡の恐怖を語る江戸川乱歩「鏡怪談」といったところでしょうか。

 「解題」で東雅夫が、富ノ沢麟太郎「あめんちあ」について高く評価し「過褒にすぎるだろうか」と書いていましたが、新感覚派の影響の色濃い悪文で、習作の域を出ないという印象でした。ただわずかに、物語中人物の愛読している本として、「ホフマン博士が、人間の影を水銀のなかへ保存したことを書いた、『灰色のスフィンクス』―その姉妹篇とも見える『影人形』・・・旅行好きの伯爵令嬢が、或廃墟となった古城の壁のなかから抜き出して来た人間の影と交渉する小説」(p198)を挙げたり、「彼には、その死というものが一種の生物で、しかも死自身はまさしく殺生鬼であると思えた」(p201)という表現には心惹かれましたが。