:Henri de Régnier『ESQUISSES VÉNITIENNES』(アンリ・ド・レニエ『ヴェニス素描』)


Henri de Régnier『ESQUISSES VÉNITIENNES』(COLLECTION DE L’ART DÉCORATIF 1906年

                                   
 1906年の初版。あまりに古い本でページを開くと分解してしまいそうなので、各ページを写真に撮り、パソコンで拡大して読みました。活版印刷なので字が紙にめり込んだ感じが何とも味わい深く読めました。

 学生のころ、草野貞之の訳註本の一部分を読んで、「L’Illusion(幻覚)」などいくつかを覚えようと努力したことを思い出します。嬉しかったのは、当時あれほど難しく思って歯がたたなかった文章が少しすらっと読めるようになっていることです。


今回は、以下の翻訳本を比較しながら読んでみました。
窪田般彌訳『ヴェネチア風物誌』(出帆社 1976年)
青柳瑞穂訳『水都幻談』(平凡社ライブラリー 1994年)
草野貞之譯『ヴェニス物語』(弘文堂世界文庫 1941年)
草野貞之譯『水都を描く』(白水社 1932年)
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 窪田訳はこの1906年初版本をもとに挿絵や体裁をそのままに復元したもの。草野譯世界文庫と青柳訳は1920年の改訂増補版を訳したもので、作品数は初版が17篇だったのが増補版は25篇に増えています。窪田訳が口語、青柳訳は文語、草野譯訳註本は口語、草野譯世界文庫版はときに文語、ときに口語と使い分けています。

 草野貞之の世界文庫版は、白水社の訳註本とは全く別人が訳したかのように新しく変えられ、かつ「フィネガンズウェイク」の翻訳を思わせるような文体の試みがなされていました。「インクつぼ」のひらがな書き、「る・とらげっと」のカタカナ書きは、言葉の意味がつかみにくいのと音節が細かく分かれすぎて、はっきり言って失敗です。「べちんのきまぐれ」ではひらがなの艶めかしさが成功していると感じましたが。

 原詩を読んだ後、各種翻訳に目を通すというやり方で読み進みましたが、各詩篇に必ず1、2カ所は思い違いしているところがあって、我ながら無能ぶりに愕然としてしまいました。が彼等プロの大先生たちも間違いをしているのを時たま発見することもあり、何となく嬉しくなるとともに、翻訳の世界の難しさを感じました。


 『ESQUISSES VÉNITIENNES』の魅力は、レニエのヴェニスに対する愛情が凝縮されているところにあると思います。これまで読んだなかでは、『Histoires incertaines(さだかならぬ話)』の2篇「L’ENTREVUE(対面)」と「MARCELINE」にも見られましたが、それ以外でも、レニエは小説や随筆、詩のいたるところでヴェニスの魅力を謳っているようです。このレニエ唯一の散文詩は、レニエがヴェニス讃歌に特化して、その趣味を心置きなく展開したものと言えましょう。

 レニエはなぜヴェネチアを愛好したのか。青柳瑞穂氏は解説で、「なによりもこの町には過去と現在が混在して・・・現代というその過去の美しさを埋没するかに見える俗悪の中に、たまたま、過去の姿が残されているからである。そのちらりと光る過去の幻が、こよなく美しいからである」(p159)と書いています。そして、レニエの魅力はまさしくそこにあり、「過去を呼び起こして、昔の夢にひたる一種の低徊趣味」「懐古的情調のなかに潜んでいる『蠱惑的な徒然なさ懶さ』」であると、草野貞之氏も『水都を描く』の前書き(p5)で説明しています。

 たしかに、各詩篇に何度も反復される情景、小道具というものがあって、それが一種独特の情調を保っています。それを拾ってみると、月、肖像画、葡萄棚、糸杉、骨董商、カーニヴァルの仮装・仮面、教会の鐘、散歩、灯火、廻廊、高潮時の冠水、迷路、運河、敷石、ゴンドラ、宮殿といったもの。
 

 翻訳本も含めて、もっとも光り輝いていた作品は、
謎めいた後姿の肖像画について語り最後は絵の中に入っていく「Le Portrait(肖像)」、骨董品を手に過去にそのカップを手にしていた賭博者を想像する「La Tasse(カップ)」、快癒期に脳裡に去来するヴェニスの魅力を語った「Convalescence(恢復期)」、ヴェニス滞在の嬉しさを鍵で表現した「LA CLÉ(鍵)」。

 次に印象に残った作品は、
到着後ヴェニスが幻の町ではないことを祈る「L’Ilusion(幻覚)」、ヴェニスのさまざまな庭の魅力を綴った「Le Jardin bizarre(奇妙な庭)」、ボードレールの「港」と呼応するような「Les Zattere(ツァッテーレ河岸)」、過去への幻想をほしいままにし最後は過去が現実に侵入してくる「L’Écritoire(インク壺)」、骨董店で見た肖像画の女性に感情移入した「La Belle Dame(美しい貴婦人)」、秋の寂しさを語った「Il Palazzo(宮殿)」、ヴェニスの画家ロンギを礼賛する「L’ÉLÉPHANT(象)」、想像のなかでヴェニス誕生の瞬間に立ち会う「朱塗台のインキ壺」、冬の寒さが忍び寄るヴェニスを描いた「ル・フェルツ」、香具師の口上が鮮やかで最後の二行で驚愕させられる「面」。


 各篇に献辞がついていて、奥さんのジェラール・ドゥーヴィル、息子のピエールや、エミール・アンリオ、ノアイユ夫人、ジルヴェール・ヴォアザン、P・J・トゥーレ、エドモンド・ジャルーなど、当時交流のあったらしき文人や画家たちの名前が連なっています。初版の挿絵を描いているマクシム・ドトマに捧げられた「Le Peintre(画家)」とジャン・ルイ・ヴォオドワイエに捧げられた「La Commedia(喜劇)」のみは献辞の相手先が作品内容に反映していました。「Le Peintre」のなかでは、ドトマをヴェニスの裏町や路地を描かせては随一の現代の風景画家として讃えており、「La Commedia」には、ヴェニスに関する詩集を出版したヴォオドワイエとの交流が描かれていました。ちなみにヴォオドワイエは「ヌーヴェル・リテレール:レニエ追悼号」に文章を寄せていて、それが世界文庫版の序文になっています。