奈良を訪れた文人に関する本二冊

  
千田稔『奈良・大和を愛したあなたへ』(東方出版 2018年)
堀辰雄『大和路・信濃路』(新潮文庫 1986年)


 会津八一を読んだついでに、戦前に奈良を訪れ、奈良へのオマージュを捧げた文人たちについての本を読んでみました。千田稔の本は、41人を取りあげ、その文人にあてた手紙というかたちで、その人と奈良との関係に触れています。『大和路・信濃路』は、そのなかに何故か堀辰雄が入ってなかったので、読んでみたものです。他に、「月日亭」を愛し『吉野葛』を書いた谷崎潤一郎や、奈良の古社寺の魅力を発見したフェノロサも、入っておりませんでした。

 明治後期から大正、昭和初期にかけて、奈良ブームが起こったように思われますが、その火付け役は誰か、というのに興味があります。フェノロサ岡倉天心の奈良の古社寺の調査か、和辻哲郎の『古寺巡礼』か、はたまた会津八一の『南京新唱』か。年代を並べてみると、フェノロサの奈良調査が1881、2年ごろ、和辻哲郎の『古寺巡礼』が1919年、『南京新唱』発刊が1924年。チャットGPTで検索したら、森鴎外の『奈良の花』(1912年)が火付け役と出ました。ネットでいろいろ調べてみましたが、「奈良の花」という作品は見当たらず、代わりに『奈良五十首』(1922年)というのが見つかりました。いずれにせよ、基本的には、明治になって京都から東京へ首都が移り、京都の威光の陰に隠れていた奈良が、京都と相対化され復活したということだと思います。


 『奈良・大和を愛したあなたへ』では、こんなにたくさんの文人が奈良と関わっていたのかと驚くとともに、知らなかったエピソードや作品について教えられました。奈良のローカル雑誌への連載記事なので、平明な紹介文となっています。次のような点です。

①「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」の句は、法隆寺で歌ったものではないと聞いていたが、正確にはよく知らなかった。今回、奈良の高級旅館「対山楼」に泊まった時のもので、手伝いの女性に柿をむいてもらいながら食べていたとき東大寺の鐘が鳴って、作ったと知った。同じ時に作った句に「大仏の足もとに寝る夜寒かな」があるそうだ。

平城京の保存は民間人の努力の賜物という話は聞いていたが、これも正確な話を知らなかった。関野貞という建築史家が平城京跡を研究し、それをもとに保存運動が誕生。棚田嘉十郎という植木商が産を傾け失明しながらも保存運動に邁進していたが、史跡指定をまたず割腹自殺したという。

幸田露伴が、わが家から歩いて行ける距離にある鶴林寺に来ていたこと。役小角が二鬼を退治したという伝説の確認のためのようだが、それなら千光寺というもう一つの寺の方が役小角に縁があると思うのに、寄っていないのは当時の情報不足のためか。

中江兆民が、明治半ばのこれもわが家の傍らを流れる竜田川を見て、「水は一滴も無く底床(ていしょう)には塵埃堆積し両岸に楓樹有るも別に古樹とも見えず」と書いていた。明治期には何の手入れもせず放置されていたことが分かる。

⑤その他、西條八十が1910年ごろ一年間奈良に滞在していたこと、北原白秋信貴山で自ら結成した短歌会の第一回全国大会(1935年)を開催したこと、折口信夫の祖父が飛鳥坐神社の神主の家系だということ、宮本常一が戦時中、郡山中学校の教師として1年4カ月ほど居て生駒谷の集落を調査したこと、など。 


 『大和路・信濃路』では、詩人、作家仲間の名前があちこちに出てきて、当時の作家たちの親密な交流がうかがえます。軽井沢では、立原道造津村信夫、神保光太郎、野村英夫、それに田部重吉や兼常清佐。奈良でも、奈良ファンの文人たちの名前が数人出てきますが、アルファベットの頭文字だけの表記なので、誰か分かりません。かろうじてJ兄というのが神西清ということは分かりました。小説家のA、若き哲学者のO、詩人のHというのは誰でしょうか。富士川英郎と手紙のやりとりをしていたことや、松村みね子に「更級日記」について教えてもらったことが出てきました。

 この本で印象深かったのは、
①詩歌とは、神のような夭折者に対する慟哭と鎮魂の念から発生したものではないかと考え、ギリシア人の慟哭の歌、リルケの「レクイエム」、万葉の挽歌に共通するものを感じ、そしてそれが奈良への愛が生まれるきっかけになったと告白しているところ。

②上とも関連するが、「日本の叙景歌の中にレクイエム的要素がほのかに痕を止めている」と折口信夫が指摘したことに共感し、また「死者の書」は古代を呼吸している唯一の古代小説だとして、折口信夫に賛辞を送っているところ。

③文中に出てくる堀辰雄の絶賛する文学作品としては、能の夢幻的な美しさを分析したクロオデルの「能」、古い日本の女性の奥ゆかしさが感じられる「更級日記」、リルケの「Requiem」、万葉集の一聯の挽歌、釈迢空死者の書」、雪を歌ったノワイユ夫人の詩の一節、イエスの時代と現代がつながっていると体感するのを描いたチェホフの短篇「学生」、没してゆく太陽の神々しさを歌ったフランシス・トムスン「落日頌」。

④奈良で出会い、感動を記述しているものは、唐招提寺の仏頭や金堂の扉の花の文様、興福寺の一心なまなざしの阿修羅、秋篠寺御堂にある今にも何か話されそうな様子の伎芸天女の像、東大寺戒壇院の血の温かみが感じられる広目天像、三月堂金堂の一抹の哀愁を帯びた月光菩薩像、法隆寺金堂の剥落しても色調の美しい壁画、法隆寺大宝蔵院の「僕の一番好きな」百済観音。

 堀辰雄も、会津八一の歌「あきしぬのみてらをいでゝかへりみる / いこまがたけにひはおちむとす」と同じく、「秋篠の村はずれからは、生駒山が丁度いい工合に眺められた」(p93)と書いていました。明日、秋篠寺に行く予定があるので、生駒山を振り返って見るつもりです。