北原白秋晩年の二冊

f:id:ikoma-san-jin:20200915063818j:plain:w180  f:id:ikoma-san-jin:20200915063831j:plain:w120
北原白秋「香ひの狩猟者」(『白秋全集23』〔岩波書店 1986年〕所収)
北原白秋『薄明消息』(アルス 1946年)


 先日読んだ塚本邦雄編『香―日本の名随筆48』に収められていた白秋の文章がすばらしかったので、「香ひの狩猟者」を読み、さらに同時期に書かれた「薄明消息」を読みました。ともに晩年、と言っても50歳(昭和10年)頃から57歳(昭和17年)で亡くなるまでの作品で、「香ひの狩猟者」は詩論、アフォリズム、短唱、随想などが混然となった詩文集、「薄明消息」は「多磨」という歌誌に連載されていた身辺雑記です。昭和12年に病を発症して眼が見えにくくなったことが双方に反映されています。「香ひの狩猟者」は全集の一冊で、「多磨」同人の短歌を添削した「鑕(かなしき)」と併載。2012年秋の百万遍古本市で200円で買いましたが、立派な本なのに全集となると気の毒なくらい安い。


 「香ひの狩猟者」は全般的に香り高い文章で綴られていますが、いくつかの文章では谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』に通じる微妙な感覚、繊細な感性が溢れています。例を挙げておきます。

「刹那」も時の、光の微塵であろう・・・ミレーの落穂ひろいの農人もあれは刈麦の落穂の実を、背をかがめて拾う姿ではあるまい。日のおちぼ、月のしたたり、幽かなその光の微塵であったのではないか/p190

顕微鏡下には深園もあれば大都市もある。蒼古な神話の浮橋も霞めば、近代の機構以上の橋梁もかかる。小にしては整然として花文、結晶図、蚤の小肢の毛の一つにも流線型のドライブ路も走っていよう/p192

象(すがた)には影が添ふ。香ひにも何かと湿るものがある。銀箔の裏は黝い。裏漉しの香ひそのものこそ香ひらしく染み出して来る/p194

白磁とはいっても、幽かな藍鼠のがあり、その曇りに何かまた幽かに明るものがひとところから艶だっていた。壺の向けようで、或る面がそうなるのであった。白い閑(しづ)かな色ではあった。色というより匂そのものであった/p202

 詩作の奥義に触れるような文章もありました。

朝顔・・・落ち散った象(すがた)を紙巻煙草の吸殻のやうだといへば乾く。火鉢の灰の中に散らばる紙巻煙草の吸殻を朝顔の散り花のやうだといへば香ひがつく。ものは言いやう、喩は感じ方なのだ/p193

言葉よりは匂を、その匂すら無いあたりを/p209

私たちの創る詩歌も、その一篇一篇があの漆胡瓶のように、その形のよさから、えならぬ円光と芬香とをふくらかに、またはほのぼのと放したいものではないか。内に満ちて外に匂うのである/p241

 また、なかには禅的な境地に入ったようなアフォリズムもありました。

水の中で石を抱けば軽々としたものだが、香ひの海の中で何を擁へたら軽くなるのだ/p199

月に映った指だったか、/あ、わたしか/p213

風見で風がまわっている。いや、風見がまわっているのだ。なんの、風が風見をまわしているのだ。いんや、風見から風が逃げまわっているのだ/p237

風の中にも風が吹く、波の中にも波が立つ、ほい、そうか、俺の中にも俺がいる/p271


 『薄明消息』では、眼が悪くなる前の記述を読んでいて、以前読んだ「虚子日記」を思い出してしまいました。戦前の文人歌人)というのは、今でいう芸能人のようなもので、行く先々で人気者として歓待を受け会合に出席していたようです。とくに白秋は、女学生に取り囲まれ這う這うの体で脱出したり、夜は宴会の連続で、飲んでばかりいるのに、驚かされました。「私は一人の私だが、向うは日に夜に変りもすればことごとくの新手であり・・・あちらに一杯差し上げても、こちらはまた受けて二杯ずつ、五十人には百杯と重なるので弱った」(p16)。

 飲むだけでなく、歌の添削などで徹夜が続いたりし、忙しさは地獄の様相を呈しています。それが原因だと思いますが、高血圧と糖尿病と腎臓病を発症し、合併症として眼底出血に至り、半分失明の状態に陥ったのではないかと思います。驚いたことに、病院の中でも煙草を吸い、見舞客も平気で病室で吸い、また重症になった後も、煙草はドクターストップになっておらず、ぷかぷか吸っているようなのには驚いてしまいました。
 
 眼が悪くなってからの記述は、ほとんどが病状報告で、克明に症状が書き込まれ、病人の心理がこと細かに記述されています。病状が悪化したり快方に向かったりに一喜一憂している様子は、その死を知っている第三者として見れば哀れを催します。

 いろんな人名が登場するのが、こういった日録の面白さです。大水彌三郎が「多磨」同人として、奈良で頑張っていた様子がうかがえますし、パリの日本人として有名な画家の山本鼎が白秋の妹の亭主ということも知りました。京城では金素雲と会ったり、折口信夫前田夕暮らを自宅に招いて月見をしていたり、磯部温泉にある大手拓次の墓に「藍色の蟇」刊行の報告に行ったりしています。永瀬義郎との交流もうかがえましたし、「桐の花」、「雲母集」のなかの七首が内藤濯によって仏訳され小松清が曲をつけていることも知りました。

 また病人ならではの洞察がありました。

それにしても何という今の美しい薄明であろう。曾て今迄知ることの出来なかった蒼茫の微けさが私を如何に楽しませ如何に真実に逼迫させ如何に又勇気と叡智とを与えて呉れることか/p126

色彩については感覚が鈍ったかというに、中々そうではない。かえって現実の色より、より強く感ずる。記憶や想像やらが之に混じって寧ろより匂いの深いものに受取れるようである/p141

 最後に歌を一首
虎の貌啖い飽きたるさましてぞ愚なりしかその眼とろめつ/p153