:矢野峰人二冊

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矢野峰人『片影』(研究社 1931年)
矢野峰人『曲中人物』(靖文社 1948年)
                                   
 『世紀末英文学史』に引き続き矢野峰人を二冊。


 『片影』は、これまでの評論評伝エッセイとは一味違い、1926年夏から28年春にかけ矢野峰人が渡英した際、イギリス、アイルランドで面談した文学者の面影を綴った旅行記であり、また一種の冒険体験談のような感じです。紹介状を手にイエイツやグレゴリイ夫人、ハウスマン、シモンズなど次々と訪ね歩くさまは、書斎の人とは思えない行動力です。

 訪れた文学者の生活の様子や人物像がくっきりと浮びあがってくるのはもちろんのこと、道も知らない街をさまよう不安や、英語で喋ることについての不自由さ、文学サロンでの賑やかな会話、異国の風景などが描かれていて、矢野峰人の作家的一面が感じられました。

 それにしても、この時代、インタヴューするのは大変だったろうと思います。相手の作家の言葉を一字一句実によく記憶されていますが、テープレコーダーもなかった時代にどうやって記録したのでしょうか。そういう次第で、ところどころ英文のままの引用が多く、日本語の本を読むのに、英語の辞書を引かねばなりませんでした。

 海外に行けば、いかに矢野峰人であっても、われわれと似たり寄ったりのところがあって、日本の諸事情を訊ねられて、「私は心中いたく狼狽して、今更ながら自分が自分の周囲に対し如何に無知無識であるか、またかかる無知無識は、周囲に対する如何に甚だしい無関心から来て居るかを省みて、深く恥じざるを得なかった」(p32)と反省したり、深夜道に迷って汗だくになったりします。

 好ましいのは、文章の端々から、相手の文学者、学者に対する崇拝や、詩に対する愛情が感じられることで、サイン帖に、自筆の詩とサインをおねだりするあたりは、単なる一ファンという感じもします。ところで、この本のところどころにその筆跡生々しい写真が、To Kazumi Yanoという宛名付きで掲載されていますが、このサイン帖はいまどこにあるのでしょうか。

 英詩人たちが、自分の詩はもちろん、自分のお気に入りの詩もすらすらと暗唱する場面が何度も出てきます。一篇の詩も満足に覚えているのがないという記憶力の乏しい私にとっては、何ともうらやましい情景です。またそうした朗誦を聞いて、詩の朗誦にはbeautiful voiceが大切(p85)と書いていますが、分かるような気がします。


 『曲中人物』は、これまでに読んだ本とかなり重複しておりました。「夢と阿片の詩人」「オスカー・ワイルド」が『世紀末英文学史』(牧神社版)と、「オショーネシィの恋」「ダウスンの恋」「詩人教授ハウスマン」「ラファエロ前派の雑誌」「『ルバイヤート』の翻訳」「珍書贋造事件」が『英文学夜話』(研究社)と。「『ルバイヤート』の翻訳」「珍書贋造事件」の二篇については、どこかで読んだことがある気がしましたが、他は読み終わっても重複に気づけなかったのが情けない。

 『世紀末英文学史』を読んだ時、漢語文脈の文語の大言壮語調のマンネリズムについて書きましたが、同じ文語でも、和文脈の美しさには、ほれぼれとしてしまいます。イリザベス・バレットの「拒絶」(p30)という詩や恋愛小曲集『ソネッツ・フロム・ザ・ポーテュギーズ』(p32)の峰人訳のなんと柔らかな印象でしょう。

 序文で、「採択は、内容の按配、装本の意匠と共に、靖文社木水彌三郎氏の配慮によるもの」(p3)と編集者への謝辞がありましたが、この人は奢灞都館から復刻出版されている木水彌三郎のことでしょうか。

 フィッツジェラルドの訳した『ルバイヤート』への熱が昂じて、「オーマー・カイヤーム倶楽部」なるものが結成され、ペルシアのオーマーの墓地への巡礼の際、墓前の薔薇の実を持ち帰ったことを紹介し、「今日ブールジュなる彼が墓畔に花咲ける二本の薔薇こそ、北風吹けば碑の上に紅き花白き花びら散りかかるというオーマーが墓地に咲けるものと同じ花なのである」(p162)との記述がありました。一度ブールジュにあるその墓に行ってみたいと思いました。

 また、『英文学夜話』にも紹介されていましたが、「ロセッティが愛妻の墓を発いてその棺の中から、曾て愛人の枕として葬ったソネット集『生命の家』の原稿を取出す決心をした」(p202)というくだりを読んで、何かしら不気味さを感じてしまいました。その詩には魔力が乗りうつっているような気がします。


 この二冊を通読して新しく興味をかき立てられた作家・詩人は、薄明幽暗の境地をうたい、レニエの詩を愛し、ネルヴァルの英訳を行なっているというシェイマス・オオサリヷン、耽美の詩人ヰルフリッド・ヰルスン・ギブスン(以上『片影』)、「ポルトガル抒情小曲集」や、二重人格を描き怪奇凄壮の気全篇に漲りあふれる「マーガレット」を書いたイリザベス・バレット(ブラウニング夫人)、「大理石の如き」冷艶素香の趣きのある詩を書き、青磁の感触、燻銀の高雅と沈静のあるエッセイ「煙草の煙」を残したライオネル・ジョンスン、『銀筆画集』Silverpoints一巻を残したジョン・グレイ(以上『曲中人物』)。

 そのジョン・グレイの「理髪師」The Barberを評した次の文章はとても蠱惑的です。「青春妙齢の婦女子が裸形の美を、幻想の形の下に恣に貪り食らわんとせるかの観がある。されば、まさに妖艶とも評すべきこの怪しき一篇は、その有する豊かなる官能味と肉体美謳歌の声と、更にこの二つを融合させて媚しき幻影の世界に人を導き入れる想像の魔手との点に於いて、慥に当時のデカダン文学の尤もなるものと言うべきである」(『曲中人物』p174)
   

 今回、英文学者たちについて、多くの情報に接することができ、またこうした人物や作品にまつわる二次情報は、読んでいて本当に楽しいものですが、よく考えてみると、文学者や作品にまつわる物語を享受しているだけに過ぎません。これらの本で取り上げられている作家の作品をどれだけ読んでいるか、振り返ってみると、ワイルド、ダウスン、イエイツ、デ・ラ・メアのいくつか、しかも原文で読んだのはワイルドの『The profundis』(拙い語学力で半分も理解できなかった)ぐらいしかありません。何とも歪んだ文学体験と恥じ入る次第です。