:ルバイヤート第二弾! フィッツジェラルド訳による7冊ほか

オマル・ハイヤームエドワード・フィッツジェラルド英訳、竹友藻風邦訳『ルバイヤート―中世ペルシアで生まれた四行詩集』(マール社 2008年)→第二版110首全
オマル・カイヤーム矢野峰人訳『ルバイヤート集成』(国書刊行会 2005年)→初版75首全、第五版101首全、第四版33首。
オーマー・カイヤム奈切哲夫訳『ルバイヤット』(蒼樹社 1949年)→第四版101首全
オーマー・カイヤム森亮訳『ルバイヤット』(国書刊行会 1986年)→初版75首全
オーマー・カイヤム寺井俊一訳『ルバイヤット』(アポロン社 1975年)→第四版101首全
尾形敏彦訳『ルバイヤアト―ペルシアの詩』(あぽろん社 1984年)→初版75首全、第二版44首、第三版1首、第四版1首。
エドワード・フィッツジェラルド井田俊隆訳『ルバイヤート―オウマ・カイヤム四行詩集』(南雲堂 1989年)→初版75首全
蒲原有明有明集』(ほるぷ出版 1974年)→第四版6首
赤木健介『在りし日の東洋詩人たち』(史學社 1948年)→第四版13首
竹友藻風訳『ルバイヤット』(西村書店 1947年)→上記マール社の原本
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竹友藻風原本

 今回は相当長文になりますがお許しください。なにせ冊数が多いもので。上記の本はすべて、フィッツジェラルド訳からの重訳が収められているものです。ご存知のようにフィッツジェラルドの訳本は初版から死後出版された第五版まであり、二版と三版、四版と五版との間の異同は僅かですが、それ以外はかなり大きく手が加えられているようです。今回は、まずそれぞれの訳者の特徴が分かるように、いずれの版でも共通している詩(初版・第四版・第五版では第29篇、第二版では第32篇)で比較してみます。( )内の数字は音数、口語のは区切りが難しくていい加減です。


竹友藻風
「如何なれば」とも知らず、この天地(あめつち)に/ 「何處より」とも知らず、諾否(うむ)なく流れ、/ その外へ、あれ野行く風のごとくに、/ 「何處へ」とわれ知らず、諾否(うむ)なく吹けり。(5・5・7/5・5・7/5・5・7/5・5・7)。


矢野峰人訳(『四行詩集』)
何地(いづち)よりまた何故と/ 知らでこの世に生れ来て/ 荒野を過ぐる風のごと/ ゆくへも知らに去るわれか。(5・7/7・5/7・5/7・5)。


矢野峰人訳(『波斯古詩 現世経』)
「何処(いづく)より」も、また「何故(なにゆえ)」もわきまへず/ この現世(うつしよ)に水のごとただ流れ来て/ 荒野吹く風さながらに、何処にか/ 行方も知らで有無もなく去りゆくわれか。(6・7・5/7・5・7/7・5・5/7・5・7)。


奈切哲夫訳
仕方なく流れて来たる水のごとわれは世に来ぬ、/ 何處よりともまた理由(わけ)もわれはえ知らず。/ 仕方なく荒地吹きゆく風のごとわれは去り逝く、/ あゝされど何處へ行くやわれはえ知らず。(5・7・5・7/5・7・7/5・7・5・7/5・7・7)


森亮訳
なぜかは知らないでこの世界の中に/ どこからともなく水のように流れてきて、/ 曠野(あらの)を渡る風のように己(おの)れの意志に係わりなく/ 行く先も知らないでわたしはゆく。(4・5、6・3/8、6・6/7・6、7・6/5・5・6)。


寺井俊一訳
如何なれば 何処よりとも はた知らず/ われは此の世に水の如 否やもあらず 流れ来て/ 此の世より 荒野を渡る風の如 何処や知らず/ 身はかくて 本意(ほい)なき儘に吹き去りぬ。  (5・7・5/7・5・7・5/5・7・5・7/5・7・5)。


尾形敏彦訳
「いづく」より「なにゆゑに」とも 知らされず/ 浮き世のなかに つれ出され 荒地の上を/ むせび哭く 寒嵐に似て 理由(わけ)知らされず/ 行方もなしに 飛ばさるる この身の運命(さだめ)。(5・7・5/7・5・7/5・7・7/7・5・7)。


井田俊隆訳
まこと、ゆく川の 流れる水のごとく/いずこよりか この世に来て、/広野(ひろの)吹く 風のごとく/いずこへか去る この縁(えにし)しれぬ私。(3、5・7・3/6・6/5・6/7、5・6)。


赤木健介訳
何故とも、何處からとも知らず、此の世界に/(我等)河のやうに無心に流れ来り/やがて其の中から、何處へとも知らず/荒地吹く風のやうに過ぎ去ってゆく。(4・7・3、6/(3)、6・4・6/3・6、6・3/5・6・7)。


ちなみに元となっているフィッツジェラルド訳はこうなっています。
Into this Universe, and Why not knowing,/ Nor Whence, like Water willy-nilly flowing:/ And out of it, as Wind along the Waste,/ I know not Whither, willy-nilly blowing.(初版はWhy, Whence, Whitherの頭文字が小文字)。


 このなかでは、森亮、井田俊隆が口語、、赤木健介は詩篇によって口語と文語が入り混じっていて、ほかは文語訳になっています。同じ口語訳でも井田訳は少し文語に近い圧縮感があり、同じ文語訳でも尾形訳は口語的なニュアンスが強く、竹友訳、矢野訳はごてごての文語という印象があります。竹友藻風の訳がいちばん意味が取りにくく、荘重ですが音が単調で魅力に欠けるように思います。矢野訳は二種あって、『四行詩集』のほうは、小川亮作が「きわめて流麗で詩としてすぐれている」と評しているように、文語訳のなかではいちばん歯切れがよく、整っています。一方『現世経』の方は、森亮が「回転が悪い」と評しているように、少しもたもたした印象があります。前回も書いたように、フィッツジェラルドの詩をどこまで忠実に再現するか、音を取るか意味を取るかによるものです。

 文語訳では、寺井訳はやや硬く詩情に乏しい。意外と奈切哲夫訳が詠嘆が入り、心に染みてきます。「今までに出た全訳書中最もすぐれている」と小川亮作が絶賛する森亮の文語訳を今回見ていないので残念ですが、森亮の口語訳のほうは、各詩篇によって言葉づかいがまちまちで、統一した人格が感じられず、よけいな言葉が見受けられ語調も悪いように思います。おそらく口語の詩作にあまり慣れてられないのではないかと推察します。まだ井田訳の口語の方がスムース。

 それぞれの本の特徴をあげると、竹友藻風マール社の本は、フィッツジェラルド原詩と邦訳を同じページに掲載し、ビアズリーの影響を受けた世紀末の雰囲気色濃い挿絵(ロナルド・バルフォア)を配して、とても美しい本に仕上がっています。解説で、杉田英明が、フィッツジェラルド本の各詩篇が独立性を保ちながらゆるやかに結合し、物語を読むように通読できることに注意を促していますが、これは森亮も指摘していました。

 矢野峰人訳『ルバイヤート集成』は、矢野峰人の「ルバイヤート」の翻訳を網羅したものです。フィッツジェラルド英詩の評釋(少し専門的すぎるか)やルバイヤートをめぐる論考「『ルバイヤート』の翻訳」「ポツタア氏蒐集の『ルウバイヤアト』の一部」が掲載されていないのは残念ですが、巻末の高遠弘美「幸福なる少数者のために」が矢野峰人の詩全体を俯瞰するすばらしい読み物となっています。南條竹則が解説のなかでフィッツジェラルド訳とハイヤーム原本の違いについて書いていますが、これは、前回あげた②の論点にあたるものなので簡単に触れておきます。原本は平易な言葉で書かれているのに、フィッツジェラルド訳は当時のイギリスの爛熟したヴィクトリア朝詩歌の文体を持っていて、かつ怪しい異国趣味が濃厚で、原作と大きく異なっている。これは翻訳としての評価を左右するものだが、南條氏は、翻訳というのは原作の持つ生気をどうしても失ってしまうものなので、それをなんらかの形で補うのが名訳だとし、過去の死灰をその時代によみがえらせたと高く評価しています。

 奈切哲夫訳本は、翻訳の妙もさることながら、巻末の解説もなかなかのもの。ネットで調べてみると、どうやら早稲田大学英文の出身で、この本の出版元である蒼樹社の社長でもあったらしい。解説では、ルバイヤートに流れる思想を、パンタ・レイ(萬物流転)、萬葉集ウパニシャッドサンスクリットの寓話など東西の思想に見られる無常観と比較していて面白く読めました。

 森亮訳本は、フィッツジェラルドの文飾・修辞に見られる創意工夫を高く評価し、もともと若くして回顧的な性格を持ち、短く美しい命への愛惜の情に溢れていて、それがルバイヤートを通じて花開いたとしています。ただ、フィッツジェラルド訳の文学的風味を持ち上げるあまり、ハイヤームに対して過小評価しているのは残念。E・デュラックの挿絵が八葉ついています。

 寺井俊一訳本は銀行勤めの方の自費出版。「ルバイヤート」の雰囲気をもとに吟した短歌三首が冒頭に「忘憂抱影」と題して掲げられているのが面白いので、一首引用しておきます。「さけ注(つ)がば その身ほのかに 甦る/ 杯(つき)はも愛(かな)し 夜毎々々に」。巻末にフィッツジェラルドの第四版原詩が掲載されています。

 尾形敏彦訳本は、各詩篇の冒頭の一文字を花文字のように大きく印刷しているのが特徴。ルバイヤートをヨーロッパに初めて紹介したのが、18世紀の宮廷通訳官トマス・ハイドがラテン語で書いた『古代ペルシア宗教』で、一首引用があるとのこと。これはどの本にも書かれていなかった話です。

 井田俊隆訳本は、右頁に詩篇一つ、左頁にエドマンド・サリバンの挿絵が添えられていて、原詩の味わいを引き立てています。また巻末にはフィッツジェラルドの初版原詩が掲載されています。解説では、ルバイヤートが何を訴えようとしているのか、ポイントとなる詩篇を引用しながら、人生のはかなさを嘆く態度、それゆえの一瞬の生命を味わうことへのこだわりを示し、それを宗教や学問でなく居酒屋や花園に見つけようとしたことなど、繰り返し述べています。フィッツジェラルド本訳者としては長谷川朝暮と並び人生派の最たるものと言えましょう。

 蒲原有明訳は、6首しかないのでよく分りませんが、原詩に忠実かつ格調高い訳。森亮が文語訳するにあたって、有明を目標にしたと書いていました。一首引用しておきます。「泥沙坡(ナイシヤプル)とよ、巴比崙(バビロン)よ、花の都に住みぬとも、/ よしやまた酌(く)む杯(さかづき)は甘(うま)しとて、苦しとて、/ 絶間(たえま)あらせず、命の酒うちしたみ、/ 命の葉もぞ散りゆかむ、一葉(ひとは)一葉に。」

 赤木健介『在りし日の東洋詩人たち』では、ゲーテ「西東詩集」、陶淵明、李太白、万葉集らと並んで、カイヤムに一章を設けて論じています。そのなかで、短詩型の東西比較や影響関係、さらにそれと東洋文化の特質との関連、またフィッツジェラルド訳は後の象徴派に通じるという説など、今回読んだ他の書には見られない指摘があって、貴重。